松本の路面電車

はじめに

まじめな話、仕事の話は他の医局員に任せ、私は例によって趣味的な話をしたいと思う。今回は「松本の路面電車」について述べてみたいと思う。

松本に昔路面電車が走っていたことを皆様はご存知だろうか。松本電鉄(現アルピコ交通)の浅間線である。1924年4月19日に開業し、1964年3月31日に廃止されたので今年で開業100周年、廃止60周年となる。松本駅前から現在の松本駅前通りを通り、秀峰学校前交差点を少し通り過ぎたところで直角にカーブして現在の国体道路(やまびこ道路)を北上して浅間温泉駅に至る5.3kmの路線であった。現在のイオンモール松本付近より浅間温泉駅にかけては専用軌道で、現在のモスバーガー松本横田店付近に横田駅があり、車庫を併設していた。

「松本のチンチン電車 懐かしき浅間線の40年」

私が松本の路面電車の存在を初めて知ったのは信州大学に入学後であった。ある日大学の授業が終わった後にふらふらと生協・購買書籍部に行くと同級生のI君が店頭に積み上げられている本を指さして「おい、この本買わないのか?」と聞いてきた。「松本のチンチン電車 懐かしき浅間線の40年」という本であった。地域交通史研究家の石川欣一氏が著し、郷土出版社から1997年に刊行された。一目見て惹かれてしまい即購入した。浅間線の歴史が非常に詳しく書かれており、写真もたくさん掲載されて読みやすく、夢中になって一晩で読破してしまった。その一部を紹介したい(一部加筆・編集した)。

旧制松本高校の前(現在の秀峰学校前交差点付近)に学校前という駅があり、ここで線路が直角にカーブしていたが、「このカーブは曲がりにくく運転士の腕の見せどころだった」とのことである。浅間線は関係者の努力のおかげで死亡事故を一度も起こすことなく終焉を迎えることができたが、昭和のはじめの大晦日の夜中に“伝説の大事故”があった。「浅間温泉駅に夜間滞泊していた車両が(勝手に)動き出して暴走し、学校前のカーブを曲がり切れずに突っ込んだ」というものだが、幸い人的被害はなかったようである。

現在の信州松本もとまち自動車学校付近に自動車学校前という駅があり、開業時は連隊裏という名称だったが、三軒屋(※「三軒家」とする資料も存在する)、大学裏、自動車学校前と三度も改名された。これは戦時において軍施設を推定されるような駅名を変えるよう命令があったためであった。ちなみに三軒屋に改名した当時、横田駅より北は桑畑が広がっており「この辺りに三軒の家もあったかどうか」という状況だったようである。

当時を知る人々の興味深いエピソードがたくさん紹介されている。
①当時スケートが盛んで冬になると浅間温泉駅からスケート場のある美鈴湖まで小1時間、ずーっと列になって歩いた。
② 浅間の温泉プールに行った帰りに水泳で使用した赤ふんどしを電車の窓枠に縛り付けてひらひらさせて乾かした。皆やっていた。松本駅に着くころにはすっかり乾いていた。
③ 横田駅付近に遊郭があり、今では考えられない程人通りがあった。夜遅くまでにぎわっていた。
④ ドブロクの入った一升瓶を網棚に載せていたところ、電車が揺れるので瓶の中のドブロクの発酵が進んだのだろう、栓がポーンと抜けてドブロクが車内に飛び散ってしまった。車内がアルコール臭くなって困った。
⑤ 通学途中、重い荷物を(車端にある)防護網に載せて、その後をついて走った。たまに慌ててしまって下駄の鼻緒を切ってしまうことがあった。
⑥ 小学生より小さい子供は大人と同伴なら一人目までは無料だったが、二人目からは料金を払わなければならなかった。そこで「ほら、あそこの人にそっとついて行きなさい」なんて言われて無料で乗せてもらったことがあった。
⑦ 結構有名な話だが(現在の信州大学の構内の)50連隊のところに戦車が放置してあって戦後に誰かが修理して走らせたことがあった。キャタピラの幅が軌道の幅と一致してうまい具合に走っていた。乗せてもらったが結構速かった。

(少しやんちゃで)たくましい昭和時代の人々の生活を窺い知ることができる歴史的資料なのである。多くの歴史の生き証人が存命中にこのような資料をまとめるのは非常に意義深いことであり、私が今までに最も感銘を受けた著作の一つである。

浅間線の遺構

浅間線廃止後、学校前~浅間温泉駅の専用軌道はバス専用道に転換された。舗装されていなかったので砂埃が舞い上がり公害問題になったため松本電鉄は専用の散水車で定期的に水をまいていた。「松本電鉄散水車」と呼ばれている。その後1978年に開催されたやまびこ国体の時にこのバス専用道は国体道路として整備され、一般車の通行が可能になった。あの交通量の多い道路が以前は通行できなかったなんて今となっては信じられない。私が信州大学に入学した1993年にはまだ浅間橋東交差点より北側に軌道敷跡であるバス専用道が残っていた。中浅間駅の駅舎が残っていたが、市道に転換され撤去された。以前モスバーガー松本横田店の裏に「松本電鉄」の名前が入った看板が存在し道路からよく見えていたが、浅間線時代のものであった。残念ながら現在は浅間線時代の遺構はほとんど残っていない。浅間温泉駅跡地の一部は「ゆけむり公園」として整備され、当時を偲ぶ記念碑が立っている。

前述した「松本電鉄散水車」が茨城県の某所で保存されていると聞くが、最近の情報がない。もし現存していたら浅間線の貴重な遺構の一つなので松本への里帰りを期待したいところである。トミーテック社で「トラックコレクション」という150分の1スケールのトラックの模型を販売しているが、以前「松本電鉄散水車」が販売されたことがある。非常に値段が高騰しており手が出ないのであるが、引き続きオークションの動向を注視している。

路面電車が多数廃止された時代

特に1960~1970年代にかけて「路面電車は古い乗り物で邪魔。自家用車こそこれからの時代の乗り物」という風潮が強く、いわゆるモータリゼーションの到来に伴い、全国的に多数の路面電車が廃止された。1955年松本駅前通りの渋滞解消を目的として松本市長から軌道撤去を求められた。松本電鉄はすでに経営の主体をバス事業に移しており何の異存もなかった。車両は大正時代に作られた木造車で老朽化しており、もし浅間線が存続すると車両更新には莫大な費用が必要だっただろう。いや、廃止を見越して車両更新をしなかったと言った方が適切だろう。政治的な駆け引きがあり本郷村が最後まで浅間線廃止に同意せず1964年までかろうじて延命したというのが実情である。私はそういう事情を無視してまで「残せ」という偏狭な鉄道ファンではなく、廃止もやむを得なかったと思う。

今路面電車が見直されている

路面電車が多数廃止された時代を乗り越えた全国各地の路面電車はうまく機能しているところが多い。たとえば広島電鉄、長崎電気軌道は地元利用のみならず観光にも便利である。路面電車は道路から直接乗り降りでき階段を上り下りする必要がなく、高齢者・障害者にも優しい乗り物である。土地勘のない観光客にもわかりやすい。駅名が全国版の時刻表に載るので街の知名度が上がるし、ステータスを高めることができる。街のシンボルであり、路面電車そのものが観光資源になり得る。しかもバスより輸送力が大きい。単なる郷愁の対象ではないのである。実際自動車中心の交通政策を転換し、歩行者や自転車、公共交通機関を優先した街づくりを進める方向性が見直されつつある。

栃木県宇都宮市の次世代型路面電車(宇都宮ライトレール)が2023年に開業し好調に推移していると聞く。2006年にJR西日本の富山港線が富山駅付近の経路変更や駅の増設を行った上で、路面電車によって運行される富山ライトレールに移管され(現在は富山地方鉄道と合併)、利便性を大幅に向上させた例もある。路面電車と自動車の共存を探る時代になったのである。今京都でインバウンドによるバスの大混雑が問題となっているが、「(昔廃止した)京都市電を残しておけば良かったのに」と思ってしまうのは当時の事情を知らない素人の浅知恵なのだろうか。

もし浅間線が残っていたら

今浅間線が残っていたらどうなっていただろうか。専用軌道のままと言うのは都市計画上考えられなかったであろう。現在の国体道路の部分は単線の専用軌道であったので、そのままでは2車線道路にすることはできず、国体道路に転換するにあたって拡幅された。人家が密集しているところも多かったようなので、今以上の拡幅は難しかったであろう。当然道路と路面電車が共存する併用軌道にするのは困難であっただろう。駅前大通の部分も現在でも4車線であり、もし併用軌道にしていたら日常的に大渋滞を引き起こしていただろう。軌道敷に車が進入してきて浅間線の定時運行は難しかった可能性が高い。しかしながら、もし浅間線が残っていれば浅間温泉は今以上に全国的な知名度が高かっただろうし、浅間温泉とタイアップして松本をもっと盛り上げることができたかも知れない。そう考えると何とか残す手立てはなかったのかと思ってしまう。ただし路面電車を転換したバスですら現在大幅に減便されており、車社会である松本で路面電車経営を維持できていたかは疑問である。昔の美しい思い出に留めておくのが良いかも知れない。

もし今松本に路面電車を走らせるなら

もし今松本に路面電車を走らせるならどこが良いだろうか。観光客を取り込むなら松本城を経由したい。市役所の通勤需要・訪問者も取り込みたい。通学や通院の需要を取り込むため信州大学前を経由したい。そこから北をどうしたら良いか悩む。波動が大きいのが気になるが、総合体育館・キッセイ文化ホールのイベント需要は魅力的である。終着点はやはり浅間温泉だろうか。その途中の広いところにパークアンドライドの無料駐車場を設け、JR松本駅から列車に乗る人にも利用してもらいたい。こんなことを夢想するが、松本は道幅が狭すぎて拡幅も困難と思われ、併用軌道は敷設困難であろうし、新たに専用軌道を建設する土地もない。松本城を経由すると以前あった外堀の中を走ることになり松本城全体の整備計画にも無関係ではいられないだろう。経営主体は松本市とアルピコ交通を中心とした第3セクターになるだろうが、アルピコ交通の路線バスの中で最も収益性が高い路線を奪う形になるので調整が必要である。ここまでやっても鉄道を維持できるほどの需要があるのか甚だ疑問である。もし経営的に成り立つようにするには市街への一般車乗り入れを全面的に禁止して路面電車に全て誘導するくらいのことをしないと難しいだろう。市民的なコンセンサスを得る必要があり困難と思われるが、実際外国では実現しているところもある。

最後に

インターネットで「松本電鉄 浅間線」で検索すると昔の写真がたくさん出てくる。それだけ浅間線を愛し、思いをはせる人が多い証拠である。今と同じ風景の中を路面電車が走っている昔の写真を見ると非常に感慨深いものがある。時間旅行を楽しめるのである。自分が今住んでいる街にも歴史が息づいていると実感できる。

歴史ある街・松本の人々の暮らしに溶け込み、松本の発展に大きく寄与した浅間線の功績を大いに讃えたいと思う。

北口良晃

写真1 松本電鉄浅間線浅間温泉駅(記念碑の写真の部分を拡大した)

 

写真2 浅間温泉駅跡地の「ゆけむり公園」にある記念碑

 

一覧へ戻る