バス趣味
はじめに
まじめな話、仕事の話は他の医局員に任せて例によって私は趣味的な話をしたいと思う。
私は子供の頃から「鉄道趣味」「旅行趣味」「野球観戦趣味」という3大趣味を抱えていた。その他にも複数趣味を抱えていたが、時間的・金銭的にこの3大趣味と同様に扱うことは困難であった。趣味にもある程度選択と集中が必要であった。しかし鉄道以外でも乗り物系はなんでも好きで自動車、航空機、バスについては生まれ持ったオタク気質も相まって異常な執着があった。鉄道、自動車、航空機については趣味人口が多く、イメージが良いか悪いかは別にして趣味として世間に認知されていると思う。では、バスについてはどうだろうか。今まで「私はバスに興味があります」と誰かに言うと驚かれることが多かった。「バスなんてどれも同じでしょ?」「なぜ趣味の対象になるの?」という反応が返ってくることが多かった。しかし日本には「日本バス友の会」という趣味団体が存在し、バスの全てを究める「バスファン」「バスマニア」「バスオタ」がたくさんいる。立派な趣味なのである。そういった方々のブログなどを見ていると他の乗り物趣味よりも書籍などの情報が少ない中、本当に感動するくらいよく調べ上げられている。旅行する時に鉄道のみならずバスも駆使する必要があるため私もある程度バスの知識を持っていたつもりだが、バスを究めた方々に比べれば風下にも置けない存在である。あくまでもバス好きの端くれとしての思い出話を中心に書いていきたい。自分の記憶を掘り起こしつつ綴っていくので正確ではない部分があるかも知れないがご容赦願いたい。
冷房車
私が幼稚園児だった時(1980年)だが、ある夏の日に母と幼稚園の最寄りのバス停でバスを待っていると遠目に見てもいつもと違うバスが入ってきた。いわゆるネオクラシック世代のモノコックバスだったが、窓ガラスにブルーの着色が入っていたのですぐわかった。ドアが開いて乗り込むと涼しかった。私が住んでいた地区に初めて配属された冷房車であった。現代では冷房車が当たり前で、逆に非冷房車を探す方が圧倒的に難しいが、当時は非冷房車が窓を全開にして風を浴びながら走っていた。田舎の方だと終点のバスロータリーや駐車場が舗装されていないことも多く、ホコリが舞い上がって車内に入ってくるため運転手が車内放送で「窓を閉めてください」と言い、同乗していた大人達が一斉にサッシ窓を閉めて回っていた。いかにも昭和的な光景が日常的に見られていたため冷房車の登場は衝撃的であった。私は期せずして乗車できた新車に一人で興奮していたが、母は「はいはい、わかったから」と全く興味がない様子であった。
観光バス
バス好きの子供にとって立席を前提にしていない観光タイプのバス、いわゆる「観光バス」は憧れの存在であった。小学校1年生の時に奈良交通の「タケノコ掘りツアー」に家族で参加したが、期待に反して非冷房の路線バスであったためがっかりした。翌年、小学校2年生の時に同じく奈良交通の「鮎のつかみ取りツアー」に参加した時に生まれて初めて観光バスに乗ることができた。これまた一人で興奮していたが、その後は学校の遠足や社会科見学でたびたび観光バスに乗る機会があった。
特に印象深いのは小学校3年生の時の社会科見学であった。緑ヶ丘浄水場と須川ダムの見学であったが、その時に乗車したのが奈良交通に導入されたばかりの日野自動車の「ブルーリボン」であった。出発前に運転手から「導入されて1週間の新車です。皆様にテストケースとして乗っていただきます。」と挨拶があった。車内で「イエーイ」と言う声が上がり、盛り上がっていた。現代にも通じる端正な外観デザインで、車内にはシャンデリアが備わっていたりして、いかにも新しい時代のバスという感じであった。
新バス
私が小学校3年生の時に今までにない形状の新しい路線バスが奈良交通に導入された。私が住んでいた地域にはすぐに導入されなかったが、2,3年経つと徐々に乗車する機会が増えてきた。日野自動車のスケルトン構造車で、エアーサスペンションが装備され、大型の固定窓で、椅子は明るいオレンジの段織りモケットで、車内にはBGMが流れていた(もっともBGMはすぐに廃止されたようだ)。それまで私が住んでいた地域ではリーフ式サスペンション(板ばね)の旧型バスがガタガタ、ギシギシ言いながら走っていたが、このスケルトン構造車は静粛性が高く、乗り心地も大幅に改善された。カーブを曲がる度に「シュー」とエアーサスペンションの排気音がして格好良く、車体の塗装も一新され何もかもが画期的であった。奈良交通がこのバスにかける意気込みが伝わってきた。当然バス好きの子供たちの垂涎の的となり、「新バス」と呼んでいた。小学校3年生の時に学年全体で平城宮跡に行ったのだが(遠足だったか写生会だったか詳細は失念した)、その時にクラスに1台バスがあてがわれ、なぜか一クラスだけこの新バスであった。私のクラスは旧型バスでとてもがっかりした。
2階建てバス
1985年、奈良交通に2階建てバスが導入された。日野自動車の「グランビュー」であった。この時期は2階建てバスの黎明期・普及期にあたり、海外メーカーも含め各バスメーカーが覇権を争っていた。奈良交通の親会社は近鉄で、当時の近鉄特急のフラッグシップ車といえば2階建て電車の「ビスタカー」であったため、2階建て車両には個人的に思い入れがあり、当然乗りたくて仕方がなかった。同年、社会科見学で大阪府堺市の大阪ガスに行くときにそれが実現してしまった。ただし奈良交通ではなく、大阪のバス会社であった(残念ながら会社名は失念した)。憧れの「グランビュー」ではなく西ドイツのネオプラン社製の2階建てバスであったが、当然私は大興奮で点呼が終わった後、バスまで走って行き2階の先頭の席を確保した。今さらながら小学生の社会科見学に2階建てバスを準備していただいた当時の関係者の粋な計らいに感謝したいと思う。
その後の奈良交通の「グランビュー」だが、1996年、松本電鉄(現アルピコ交通)に1台売却され松本にやってきた。私の後を追って松本に来てくれたように思え、とてもうれしかった。松本に住んでいる私が松本の定期観光バスに乗ることはなく、乗車する機会に恵まれなかったが、松本電鉄のレインボーカラーがとても似合っており、見るだけでうれしくなれるようなバスであった。
昭和時代のバス
よく「昭和の平和な時代に戻ってほしい」、「昭和時代は良かった」という声を聴く。昭和時代の良かった点と言えば「今よりも夢や希望があったこと、大らかだったこと」だと思う。全てにおいて技術革新が顕著で、日々生活が豊かになっていくのが目に見えてわかった。景気がどんどん良くなり、日本の未来は前途洋々であった。これからどれくらい日本が発展していくのか楽しみであった。少なくとも今の日本のように将来の不安・閉塞感が漂うようなことはなかったと思う。バス一つをとってもそうであった。上記のごとく新しい革新的なバスが次から次に登場し、その出来栄えに感動できる時代であった。行け行けドンドンの時代の象徴であった。今のバスは成熟しとても快適であるが、昭和時代のように新車が出るたびに感動するようなことはなくなってしまった。
では昭和時代に戻りたいかというとそうとも言えない。飲酒運転が横行し、交通マナーは圧倒的に悪く、交通事故の死者数は桁違いであった。街じゅうにタバコの煙が充満し、駅のプラットホームでも列車が来る直前まで喫煙している人がたくさんいて、列車が入線してきたら一斉に線路にタバコをポイ捨てするという恐ろしい光景が繰り広げられていた。学校では教師による体罰・いじめが当たり前のように横行していた(もっとも学校が荒れていたのでそれくらいしないと「不良少年」をコントロールできなかったのかも知れない)。ただ時々昭和時代が妙に懐かしくなる時があるのは事実である。夢や希望があったためか心に染み入るような良い歌謡曲が多く、今でもYouTubeでよく聞いている。古いバスを見ると、そんな夢や希望に満ちた昭和時代を思い出すことができ楽しい気分になれるのである。
アメリカのバス
2006年秋から2008年秋まで私はアメリカに留学していた。前半はコロラド州デンバー、後半はバージニア州リッチモンドに在住した。アメリカは自動車大国であり、自家用車がないと一般的に生活が困難であるが、デンバーに住んでいた時にひょんなことから自家用車が使えない時が3か月弱あった。レンタカーを1か月間借りたが、残りの期間は全く自動車を使えなかった。期せずしてデンバーのバス路線を駆使して生活することになった。もっともバス好きの私は「アメリカ文化に触れる良い機会」と前向きに捉えることができた。職場までは2本のバスを乗り継いで約1時間かけて通勤した。初めてバスに乗って職場から自宅に帰る時が不安であった。コロラド・ブルーバードという大通りを走るバスからミシシッピ・アベニューというあまり大きくない通りを走るバスに乗り換える必要があったのだが、車内放送は肉声で、運転手がぼそぼそ言うことが多く全く聞き取れないし、どこで乗り換えれば良いのかわからなかった。運転席の斜め後ろに立ち、目を皿のようにして前方を凝視していたら運転手が気付いたらしく「どこに行くんだ?」と聞いてくれた。「ミシシッピ・アベニュー」と答えると「教えるから待ってろ」と言ってくれて無事乗り換えることができた。料金は定額制で走行距離の割に安く、しかも申告すれば乗換えチケットを発行してくれて2本目のバスは無料で利用できた。自動車を持っていない交通弱者に対してもしっかり受け皿が準備されているのであった。バリアフリーについても徹底していた。アメリカでは肥満者が多いためか車椅子の利用者が大変多い。日常的に車椅子を一人で自走させている人を見かけた。バス停に車椅子の人がいるとバスがニーリング(エアーサスペンションのエアーを抜いて車高を下げる)して車椅子用のスロープが自動的に出てくる。車椅子の利用者は自走してバスの車内に入る。車内の客は車椅子の利用者のために一斉に移動してスペースを空けるという場面を毎日のように目にした。アメリカのバスはサイズが大きいので日本で同じ構造のバスを走らせるのは難しいだろうが、アメリカ人の身体障害者に対する姿勢は素晴らしいと思った。
アメリカ人は本当に気さくに他人に話しかけてくる。それはバスでも例外ではなく、英語が怪しい私にもよく話しかけてきた。職場の最寄りのバス停でバスを待っていてバスが入ってきた時に道路の向かい側にいた人(歩行者信号は「止まれ」だったので渡れない)に大声で話しかけられた。「私もバスに乗りたいからバスを止めておいてくれ」。バスの運転手に「あの人が乗るから待ってくれ」と伝えたら本当にバスは待ってくれた。「さっき走って行ったバスは何系統だった?」とか聞かれるのは日常茶飯事であった。時々「changeをくれ」と言われるのは困った。私はchangeの意味が最初わからず、てっきり両替してほしいのかと思い、クオーターを料金分渡したところ「ありがとう」と言われ何も返してくれなかった。後で「change」は「おつり」と言う意味であることがわかった。要は「おつりで私の料金も払ってくれ」と言っているのである。「なんで俺があんたの料金を払わなあかんねん?」と日本だったら言いたいところだが、ここはアメリカである。勉強料と思って我慢し、以後は丁寧にお断りしていた。慣れるとバスは本当に便利で快適で、自家用車が再び使えるようになった後もデンバーのダウンタウンに行くときにバスとライトレールを乗り継いで行ったりしていた。バージニア州リッチモンドに引っ越した後も自宅から職場までバスを利用できた。しかもダウンタウン内では無料であったため仕事とは関係ない時にも利用していた。自動車大国のアメリカだが、バスも充実しているのは本当に素晴らしいと思う。
おわりに
現代は自動車社会であるが、バスは維持すべき重要なインフラの一つである。自家用自動車があれば全て事足りるなどと言う考えは浅はかである。なぜなら誰しも高齢になれば運転できなくなる時が来るし、外傷・疾病などでいつ自分が交通弱者になるかわからないからである。決して他人事ではないのである。広い視野を持って苦境に立たされている公共の交通機関を維持する努力を国全体ですべきと思う。個人としてできることは、なるべく利用することである。コロナが落ち着いたら公共の交通機関を使って旅行に行きたいと思う。
北口良晃