旅行趣味

はじめに

まじめな話、仕事の話は他の医局員に任せ、私は例によって趣味的な話をしたいと思う。

この原稿を書いている12月10日現在、国内の新型コロナウイルス感染症は落ち着いた状況が続いているが、まだ第6波が来る可能性はあり、予断を許さない状況は続く。まだ大手を振って旅行に行くことはできず、ストレスが溜まる毎日であるが、今回は旅行趣味について述べてみたいと思う。

 最初の旅行

私は学生時代、今とは比較にならないくらい活動的で、いつも隙があれば旅行、野球観戦、鉄道模型屋、本屋、図書館等に行き、趣味活動を全開にしていたので休みの日はほとんど家にいなかった。未知の土地に対する興味や乗りたい列車・路線が多数存在したことが私を旅行に駆り立てた。家族が同伴しない、初めて自分で計画を立てた旅行に行ったのは小学校を卒業した直後で、同級生の友達が同伴していた。なにぶん二人とも小学生だったので泊まりでは行けず、国鉄の普通列車が1日乗り放題になる青春18きっぷ(詳細は後述する)を使っての日帰り旅行であった。早朝に奈良の自宅を出て国鉄奈良線・東海道本線・北陸本線を乗り継いで福井県の敦賀に行き、若狭湾沿いを走る小浜線を完乗して京都府北部の東舞鶴に行き、舞鶴線・福知山線を乗り継いで大阪に戻った。全て普通列車なので当然時間がかかり、自宅に戻ったのは夜だったが、国鉄を堪能することができた。この時に時刻表を駆使して安価に列車に乗って遠くに行くノウハウを確立できた。以後、長期の休みの度に青春18きっぷを買って遠方に出かけるのが恒例となった。

青春18きっぷ

国鉄・JRの普通列車が1日乗り放題になる切符で、散々お世話になった。5枚で11000円(税別)であった。1枚あたりわずか2200円(税別)で一日中列車に乗れるというお得な切符で貧乏旅行の強い味方であった。春休み、夏休み、冬休みなど長期の休みになると青春18きっぷの5枚綴りを買ってきて、自分で全て使ったり友達と分け合ったりした。自宅は奈良にあったが、大阪あるいは京都に出ると新快速という恐ろしく速い列車が走っており、遠方まで短時間で行くことが可能であった。大阪から姫路がたったの1時間強、そこから普通列車を乗り継いで約2時間半あまりで岡山まで到達することが可能であった。姫路・岡山を起点に中国・四国地方のいろいろな鉄道路線に乗りに行ったものだった。

慣れてくると日帰り旅行では飽き足らず、さらに遠くに行きたくなった。幸い当時は青春18きっぷでも利用できる夜行の普通列車・快速列車が多数走っていた。私は学生時代4回九州に行ったがいずれも青春18きっぷで「ムーンライト九州」という関西から博多(熊本)に行く夜行快速列車を利用した。その内2回は往復ともに「ムーンライト九州」を利用して2日目の丸1日を九州観光に当てる0泊3日の強行軍であった。この方法を使えば、青春18きっぷ3枚、すなわち6600円(税別)で九州で丸1日遊べるのであった。ただし車内は4人向かい合わせのボックスシートで、しかも結構混み合うので、椅子の上で丸くなって寝る、いわゆる「エビ寝」ができず熟睡することは困難であった。

同様に東京方面にも夜行の普通列車があり、これもよく利用した。「大垣夜行」と言い、岐阜県の大垣から東京まで毎日1往復走っており、上り列車は朝4時42分に東京に到着した。山手線を1、2周して仮眠を取りながら時間をつぶし、その後東京観光を開始したりしていた。「大垣夜行」は大変混み合うので出発の2, 3時間前には大垣駅や東京駅のホームの乗車口に並んでいた。

高校2年の時の美術の夏休みの宿題で「どこかの美術館に行って絵画の感想文を書くこと」というものがあった。ちょうど青春18きっぷが1枚余っていたので、行き先は岡山県の倉敷にある大原美術館に迷うことなく決めた。早朝に自宅を出て大阪から新快速・普通列車を乗り継いで倉敷に行き、大原美術館に行った後、倉敷の美観地区で肉うどんを食べ、アイビースクエアなどを観光し、また普通列車・新快速を乗り継いで夜自宅に戻った。日帰りでも青春18きっぷ1枚で大変充実した旅行ができた。

体力まかせの貧乏旅行であったが、こんなことができたのも青春18きっぷのおかげである。日本の様々なところに行けてとても幸せであった。今は時間の方が貴重になってしまい青春18きっぷを利用した旅行もなかなかできないのが残念である。

贅沢な旅行

高校時代、いつもは青春18きっぷを使った貧乏旅行であったが、たまには思いっきり贅沢してみたいと思った。1990年、高校1年生の夏休みであったが、1週間北海道を一人で旅行した。北海道ワイド周遊券という道内の特急・急行の自由席が乗り放題になる切符で道内を巡った。往路は上野発札幌行きの「北斗星1号」という寝台特急であった。非常に豪華で話題の列車であった。時はバブル絶頂期ということもあって切符がなかなか手に入らなかった。ネット予約など存在しない時代であった。JRは1ヶ月前の午前10時に指定券の発売が始まるのだが、私は1ヶ月前の早朝にJR奈良駅の「みどりの窓口」に行き、10時になった時の指定券の発券を依頼した。自宅からはちょうど10キロ離れており、そんな早朝に公共の交通機関は動いていないので自転車を飛ばして行った。7月22日の午前3時に自宅を出発し、5時の開門まで奈良駅の前で待った。8月22日分の指定券を依頼したのだが、あえなく撃沈した。翌日も同じように早朝にJR奈良駅に行き、8月23日分の切符を依頼したところ「北斗星1号」の一番豪華な個室(デラックスA寝台1人用個室:通称ロイヤル個室)の切符を入手することができた。このときは本当にうれしかった。話題の列車なだけあって乗車前にテレビ局の取材があった。当時私は青い高校生であり、テレビカメラの前でまともにしゃべることができず、果たして放送されたのかどうかは不明である。豪華寝台列車だけに食堂車も連結されており、フランス料理のフルコースを予約していた。一人旅の高校生がこんなことをするのは珍しいのか、食堂車では周りの視線が痛かった。

旅先で出会った人々

私はそれほど社交的ではなく、旅先で積極的に他人に話しかけることはないが、それでも頻回に旅行を繰り返しているといろいろな人に出会った。大阪から鳥取行き特急「はまかぜ」の自由席に乗っていたところ初老の夫婦に話しかけられた。いろいろな話をしたが、どうも話題が共通しているのでおかしいと思ったら、同じ奈良の同じ地域に住んでいるご近所さんであることが判明した。

高校2年生の冬休みに一人で九州に行った。「ムーンライト九州」に乗って、朝博多に到着し、地下鉄・西日本鉄道を乗り継いで太宰府天満宮に行き、1年早いが大学受験の合格祈願を行った。その後、諫早を経由して島原に向かった。雲仙普賢岳が噴火し、火砕流で大きな被害が出た年だったのだが、自分の目で雲仙普賢岳を見てみたかったのと、島原鉄道の旧型気動車に乗ってみたかったのがこのようなルートを取った理由である。島原城などを観光し、島原外港から国道フェリーで三角港、三角線で熊本に出て、熊本から「ムーンライト九州」に乗った。ボックスシートの向かいに横浜から来たという38歳の男性が座っていた。二人とも乗り物マニアで意気投合し一晩中話は尽きなかった。お互いの地元のバス会社の奈良交通・神奈川中央交通の話題になった。当時奈良交通に「バスカード」というプリペイドカードシステムが導入されたのだが、初期故障が多発しその度に乗客の流れが止まってしまい困っていた。「あのバスカードの機械は故障が多くて困る。あんなの導入しないで欲しい。」という少し過激な話をしたところ、なぜか彼は大笑いしていた。その後の言葉が忘れられない。「奈良交通のバスカードの機械はうちの会社が作ったんですよ」。その後すぐに「バスカード」のシステムは安定し、便利に利用できたことを付け加えておく。

高校2年生になる前の春休みに岡山で蒸気機関車が走るイベントがあり見に行った。そのついでに廃止間近の同和鉱業片上鉄道に乗車する予定であった。和気駅で蒸気機関車が来るのを待っていたところ全国を旅しているという大学生に話しかけられた。彼は鉄道ファンではなかったのだが、私がいろいろ鉄道のうんちくを傾けていた。その縁で片上鉄道も一緒に乗ることになった。旅行先でいろいろな人に話しかけて人とのふれあいを大事にしているとのことだった。いろいろな旅先の思い出話はおもしろく、刺激になった。彼は終点の柵原駅でも地元の人に積極的に話しかけており、「津山にはいろいろ見るべきところがありますよ」という地元の人の勧めで津山行きのバスに乗っていった。私も大学生になったらそのような旅行をしてみたいと思った。帰宅後柵原駅で彼が撮ってくれた私の写真と丁寧なお手紙を頂戴した。

旅行の相棒

よく一緒に旅行に行ったのは同じ小学校・中学校に通っていたY君であった。お互い筋金入りの鉄道ファンであった。いつも私が勝手に旅行のプランを作り、彼はおとなしく付き合ってくれた。初めて長野県の鉄道に乗ったのはY君と行った中学校の卒業旅行である。青春18きっぷを使って大垣夜行で東京に出て普通列車を乗り継いで碓氷峠(信越本線)、小海線、中央本線、大糸線で長野県を縦断した。一緒に普通列車で中国地方のローカル線を片っ端から乗りまくったり、近鉄特急の新車が出る度に試乗に行ったりした。同じ塾に通っていたのだが、土曜日の夕方の授業の前に電化直前の片町線(木津~長尾)の気動車に乗りに行ったところ、思っていた以上に時間がかかり、二人で遅刻した。遅刻の言い訳に困ったのは言うまでもない。大学生時代も長期の休みの時に一緒に旅行に行ったりしたが、社会人になってからはお互い遠方で多忙であり、会えていないのが残念である。彼はある鉄道会社に就職してどんどん出世し、今や180人の職場の長である。今でも連絡を取り合っており、昔鉄道を乗り回していた話題で盛り上がっている。趣味と実益が一致して実にうらやましいが、彼も今の地位を得るために様々な苦労、血がにじむような努力をしてきたのだと思う。

私は中学生時代から旅慣れており、頻回に旅行に行っていることを周りに知られていたので、私の旅行についていきたいという奇特な人が時々いた。Y君の場合は鉄道ファンなので、何も問題なかったが、鉄道ファンではない一般の人だとなかなか大変だった。いつもの私のペースで連れ回すわけにはいかなかったし、鉄道ばかり乗っているわけにはいかなかった。観光の要素を増やす必要があり、想定以上にお金がかかった。ただし仲の良い同伴者がいるとやはり楽しいものである。大学1年生の時、鉄道ファンではない級友のS君に「冬休みに太宰府天満宮にお礼参りに行く」と言ったところ「俺を連れて行かねえか?」と言われた。もちろん断る理由はないので、京都で夜集合して「ムーンライト九州」に乗って朝九州入りした。普通列車と西日本鉄道を乗り継いで太宰府天満宮に行き目的を達した後、さらに普通列車を乗り継いで湯布院温泉へ行き、少し観光をして温泉旅館で一泊した。翌日、朝から貸し自転車を駆って観光をして、昼食を取った後、やまなみハイウェイバスで別府方面に出て別府地獄巡りをした。別府で夕食を取った後、別府国際観光港から夜行の大型フェリー(さんふらわあ2)に乗って大阪南港へ向かった。大型フェリーは贅沢に寝台区画を予約した。私にとっては非常にゆとりのある贅沢なプランだったのだが、S君は疲れてしまったようで、湯布院温泉の旅館、大型フェリーともになかなか朝起きてこないので私がたたき起こした。

好きな旅行先

私はこの世で最も好きな食べ物は何かと聞かれたら、「カニ」と即答するくらいカニが好きである。全然自慢にならないが、カニの解体は私の得意技である。温泉も好きなので「カニ」「海」「温泉」がそろったところが特に好きな旅行先なのである。かなり限定されてしまうのだが、兵庫県北部の城崎温泉・香住(香美)はその条件に当てはまり私が最も好きな旅行先の一つである。冬はカニを食べるために旅行したりした。大学生4年生の時、花咲ガニが食べたくなって北海道を一人で旅行した。往復とも「はまなす」という青森~札幌間に走っていた夜行急行を利用し、道内の宿泊地は根室、川湯温泉、旭川であった。根室で待望の花咲ガニを食べた。当時私は列車のプランは立てるが宿の予約をしないで旅行していた。現地に行って観光案内所に行って宿を紹介してもらっていた。根室では「予算は5, 6千円くらいで、民宿を紹介してください」と言ったところ「ここなら一人客でも親切にしてくれるでしょう」ということで根室駅の近くの小さな民宿を紹介された。本当に親切にしてくれた。花咲ガニを食べたいと言うと5, 6杯のゆでた花咲ガニを渡され、「おやつ代わりにどうぞ。ちなみにそれ、お兄さんの宿泊費より高いよ。」と言われた。長野オリンピック、当地の医療事情、昔走っていた根室拓殖軌道の話題などで盛り上がり、本当に楽しかった。申し訳ないことに花咲ガニは無料であった。

私は長野県や奈良県といった内陸地域ばかりに住んでいるため、海を見ると感動してしまう。旅行も海の近くに行くことが多いが、特に祖父母が住んでいた秋田県の男鹿半島、関西から手軽に行ける伊勢志摩は昔から行くことが多く、ふるさとに帰ったような安らぎを覚え、大好きな旅行先である。

実家との往復

大学は松本、実家は奈良であった。今思えば程よい距離であった。遠からず近からず絶妙な距離感であった。様々な交通機関を利用でき、実家の往復が楽しかった。列車に乗ることが楽しみで帰省しているようなものだった。普通は奈良から松本に行く場合、京都まで近鉄、名古屋まで新幹線、松本まで特急「しなの」であろうが、当時私はお金がなくても時間と体力だけはある大学生だったので、半分くらいは青春18きっぷを使って普通列車を乗り継いで行ったりした。普通列車で行く場合京都、米原、名古屋、中津川で乗り継ぎ、自宅まで約9時間で到達できた。米原駅で米原発豊橋行きの快速列車に乗り継ぐときが要注意で、4両編成で本数も少なく自分と同じような「青春18族」(「18きっぱー」とも言う)で混雑し下手をすると座れないので、いつも米原駅到着前から扉の前で待機し、扉が開いたら飛び出して、乗り換えホームまで跨線橋を走った。俗に言う「米原ダッシュ」である。私は当時到着ホームの跨線橋の階段の位置を正確に把握していたので、席取り競争に負けることなく一度も座れなかったことはなかった。逆に松本から奈良に行くときは、名古屋ではなく金山で米原行きの快速に乗り換えれば、周りの客が名古屋で多数下車した後に座れるため楽だった。

また様々なルートを試した。奈良から名古屋まで関西本線の急行「かすが」に乗って名古屋に出て、中央本線に乗り継いだり、近鉄特急で名古屋まで出て、中央本線に乗り継ぐこともあった。北陸本線と大糸線を乗り継いで京都から松本に行ったりした。他の交通機関も充実していた。松本~大阪梅田や松本~名古屋間の高速バスに乗ったこともしばしばあり、一度だけ松本空港から伊丹空港まで飛行機で行き奈良まで帰ったことがある。実家でどうしても車が必要な時は車で帰ることもあり、普段は5時間弱で到達できるためちょうど良いドライブコースであった(ただし一人だと割高なのが痛かった)。

今は時間の方が貴重なのでほとんど新幹線と特急「しなの」であるが、昔のようにゆっくりと旅行を楽しむ余裕が欲しいと思う。今の私にとって青春18きっぷを使った普通列車の旅は最高の贅沢なのである。

終わりに

旅行のことになるとまだまだいくらでも書きたいことがあるのだが、だんだんマニアックな話になるので、このあたりで自重しておきたい。早く自由に旅行に行ける世の中になって欲しい、この一言に尽きる。その時までひたすら我慢である。それまではインドアな趣味で気を紛らわせることにしたい。

北口良晃

帰省する時に散々お世話になった165系電車(松本~中津川間の普通列車)

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