飛行機に乗るのが少し怖いおじさんの回想録

はじめに

まじめな話、仕事の話は他の医局員にお任せして、今回も私は趣味的なお話をしたいと思う。
私は鉄道が大好きな人間であるが、乗り物全般に興味があり、それは飛行機についても例外ではない。ただし私の乗り物趣味の序列は「鉄道>>>車>飛行機>バス」であり、基本的に「鉄道で行けるところは鉄道で行く」というスタンスである。それ故特に飛行機の国内線についてはあまり利用することがない。私は学生時代、北海道に2回、九州に4回、四国に2回旅行に行ったことがあるのだが、飛行機を利用したことはない。例外的に九州からの帰りに夜行高速バス、大型フェリーにそれぞれ1回ずつ利用したことがあるが、それ以外は夜行列車等を駆使して行った。例を挙げると1998年の冬に1週間北海道を一人で旅行したときは往復ともに当時青森~札幌間に走っていた「はまなす」と言う夜行急行を利用した。最後の目的地であった稚内(宗谷岬)からまる24時間かけて6本の在来線の列車を乗り継いで松本まで帰ってきた。基本的に貧乏旅行であったのでLCCがなかった当時、飛行機とは縁がなかった。それでも人生が長くなってくるとそれなりに飛行機に乗る機会があった。今回は飛行機にまつわるお話をしたいと思う。

最初の思い出

私は生来の乗り物好きなので幼稚園に入ってからは、いつどのような乗り物に乗ったかだいたい記憶している。当時私は奈良県、祖父母は秋田県に在住しており、夏、冬の帰省時に伊丹~秋田線を利用していた。昭和50年代半ばの話である。東亜国内航空しか就航しておらず、機種はYS-11であった。YS-11は戦後初の国産旅客機であり、歴史的な機体としてあまりにも有名であるが、当時はまだ地方路線の主力であった。しかし私にとってはつらい思い出が多かった。非常に騒音が大きく、揺れが大きかった。私は乗り物酔いしやすい子供だったので、いつも機内では気分が悪くなって嘔吐していた。もちろんエチケット袋にである。ただ悪いことばかりではなかった。ジェット機に比べると低空を飛行するので、天気が良ければ窓外には日本地図さながらの風景が広がっていた。ステュワーデスはいつも具合悪そうにしている私を心配してくれた。YS-11の狭い機内だから目が行き届くのだろう。トイレに行くときは一緒についてきてくれたし、水平飛行している時は遊び相手になってくれたりした。童話の本をくれたり(ヘンゼルとグレーテルの本をくれたのを今でも覚えている)、プラスチックの飛行機模型をくれたりした。そんな時、「飛行機っていいな」と思った。まだ飛行機が特別な乗り物だった時代の話である。決して裕福な家庭で育ったわけではない私がこの時代の飛行機に乗ることができたのは、飛行機が必要なほど遠方に祖父母が在住していたこと、交通費を祖父母が負担してくれたことが大きく幸運なことであった。

期待のジェット機

そんなこんなでいろいろな思い出があるYS-11に搭乗したのは小学校2年生の夏休みが最後であった。伊丹~秋田線の往路であった。復路はDC-9というジェット機であった。「とうとう伊丹~秋田線にもジェット機が飛ぶようになったか。」と皆大喜びであった。秋田空港も移転して新規オープンし、新しい時代の到来を感じさせるに十分であった。「ジェット旅客機は乗り心地も良くて速い」と聞いていたので期待が大きかった。T字尾翼を備えエンジンが機体後部についた外観はスマートで、機内もYS-11に比べると広かった。音もYS-11のプロペラの「ブーン」ではなく、ジェットエンジンの「キーン」で、いかにも高性能で近代的な感じであった。しかし上空でやはり気分が悪くなり、嘔吐してしまった。子供ながらに期待していただけに失望が大きかった。特に気流が悪くて揺れた記憶はなく、今なら全く問題なかったのだろうが、私が幼少期においては気圧の変動に弱い特異な体質だったのかも知れない。伊丹空港に降り立った時はふらふらであった。両親はそんな私を見かねてか、あるいは私の無類の鉄道好きを慮ってか、次の年からは列車で帰省することになった。それから飛行機に乗る機会は激減した。

飛行機に興味を持ったきっかけ

私が小学校5年生の時、飛行機に興味を持つきっかけとなった衝撃的な事故が起きた。1985年8月12日、群馬県上野村御巣鷹の尾根に日本航空123便が墜落したのである。我が家は夕食中で、テレビにニュース速報が流れた。「日本航空123便消息不明。乗客乗員524人が乗っています。」という内容に凍り付いた。すぐにテレビはニュース特番に切り替わり、乗客名簿が延々と読まれていた。当初は墜落地点が不明とされていたが、朝になり詳細が明らかになり、あまりの悲惨さに言葉を失った。事故の原因の詳細については運輸省事故調査委員会の報告書が基本になるだろうが、様々な議論があり事故原因の再調査を求める声も上がっており、詳しく述べた本が多数出版されている。ここではあえて詳しく述べないが、私も当該事故の本当の原因は何なのか、当該機(ボーイング747SR 機体記号JA8119)だけの問題なのかボーイング747全体の問題なのか、飛行機はどういう構造をしているのか、飛行機がなぜ墜ちるのか知りたくて飛行機・航空機事故関連の本をたくさん読んだ。これには飛行機事故が頻発していた当時の時代背景が影響している。時代は遡るが1983年にサハリン沖で発生した大韓航空機撃墜事件、1982年に羽田沖で発生した日本航空350便墜落事故が起き、私も当時「飛行機は怖い。いつ墜ちるかわからない。」と本気で思っていたのである。

事故関連の本

今は歳をとり集中力がなくなり、安直にインターネットを見ることも多くなり情けないことにあまり読書をしなくなってしまったが、私が中学生・高校生であった1980年代終わり~1990年代はじめはインターネットがなかったこともあり、本をたくさん読んだ。当時いろんな知識を得て世界を広げるには読書することが不可欠であったのである。最もたくさん読んだのは、何と言っても趣味の序列第1位の鉄道関連の本であった。鉄道関連の本は購入することも多かったが、それ以外の分野の本を購入するのは金銭的に厳しく図書館に足繁く通い借りてきた。2番目にたくさん読んだのは飛行機・航空機事故関連の本で、40~50冊は読んだであろう。ちなみに3番目は原子力発電所・原発事故関連の本であった。ノンフィクションが好きで、特に事故関連の本を好んで読んでいた。ここで医学のいの字も出てこないのが実に私らしいが、医療事故は個人情報を含むため本になりづらいという側面があるかも知れない。事故関連の本を読んで学んだのは過去の経験を生かす重要性である。現在飛行機にはボイスレコーダー、フライトレコーダーが装備され、事故後回収され、原因解明に役立てられる。その知見を元に将来事故が起きないように日々改良が加えられている。飛行機の歴史はそうやって作り上げてきた部分が大きい。過去の経験を生かすのは、医療事故の解決にも重要なことである。

航空機事故

私にとって特に印象深い航空機事故をいくつか簡潔に記してみたい。

① コメット連続墜落事故

1953年から1954年にかけて世界初の量産ジェット旅客機であるイギリスのデ・ハビランド社製の「コメット」に3回連続して発生した墜落事故である。いずれも機体が空中分解したのだが原因は当初不明であった。イギリスのチャーチル首相は「イングランド銀行の金庫が空になっても良いから原因解明せよ」と命じ、海中から飛行機の残骸をすべて回収して原因究明にあたった。結局コメット号は従来より高い高度を飛行する度に繰り返される与圧によって想定以上に早く機体に金属疲労が発生したことが原因で空中分解したのである。それ以降作られた飛行機は構造が強化された。窓は角を作らない円形として亀裂が入りにくいようになった。当該事故を契機にその後の航空機の安全性が著しく向上し、航空事故の科学的検証手法を確立したといっても過言ではなく、多くの貴重な教訓を残した。

② 英国海外航空機空中分解事故

1966年、世界周航便の英国海外航空機が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれて空中分解し124名が死亡した。確証はないらしいが、当時天気が良ければ観光サービスのため日本の象徴である富士山を近くで見学してもらうために富士山の近くを通常より低空で飛行することがあったようである。以後独立峰である富士山は乱気流が発生するリスクがあることが認知され、現在では富士山付近を飛行する場合は十分な高度を取り、もし乱気流の発生が報告された場合は大きく迂回するコースを取るようになった。

③ 全日空機雫石衝突事故

1971年、岩手県の雫石上空を飛行中の全日空機と航空自衛隊機が衝突し双方とも墜落し162名が死亡した。第一の原因は自衛隊機が訓練空域を逸脱して訓練飛行を続けたためとされているが、当時は現場空域で航空路監視レーダーが未設置であり、全国的にも航空交通の急速な発展に伴う様々な問題が発生し、ニアミスが続発していた時代背景があった。この事故をきっかけに航空事故調査委委員会が設置された。

④ 日本航空350便墜落事故

1982年に発生したいわゆる逆噴射事故である。機長が強い妄想を伴う統合失調症にり患しており心神喪失の状態であった。妄想に従って通常着陸後に減速するために用いる逆噴射を東京湾上空で行い、急激に推力を失って失速し羽田沖に墜落した。24名が死亡し、149名が重軽傷を負った。現代の飛行機では飛行中に逆噴射ができないようになっている。この事故を契機に航空機の乗務員の健康を向上させるための医療機関である航空医学研究センターが設立された

⑤ 日本航空123便墜落事故

1985年、日本航空のジャンボ機が群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落し520名が死亡した。運輸省事故調査委員会の報告書では、1978年に事故当該機が伊丹空港着陸時にしりもち事故を起こして機体後部の圧力隔壁を損傷し、その際のボーイング社による不適切な修理が事故原因と推定されている。圧力隔壁が金属疲労により破損し与圧構造が損壊し、さらにフラップ等を操作する油圧操縦システムを喪失、垂直尾翼の大部分を欠損したため操縦不能となり墜落したと結論付けられているが、様々な議論が存在するのは前述のとおりである。この事故を契機に与圧構造が損壊した場合のフェイルセーフ性が重要視されるようになり、以後製造される航空機も改良が加えられた。
これらの経験があり原因を究明したからこそ現代人は安全に空の旅ができるのである。1985年以降国内のエアラインで機体喪失事故は起きておらず、すばらしいことだと思っている。ただし海外のエアラインでは1994年に名古屋空港で墜落した中華航空140便墜落事故をはじめその後も機体喪失事故は起きている。マレーシア航空370便のように行方不明になるという不可解な事件も発生したし、最近ではボーイング737MAXという最新鋭機が、短期間で二度連続して墜落事故を起こし、機体の欠陥の可能性も指摘されている。空の安全は永遠のテーマである。

好きな機体

暗い話が続いたが、ここは一転して好きな機体の話をしたい。それはずばりボーイング747、いわゆるジャンボジェットである。「日本人なのだからYS-11だろ?」と言われそうだが、残念ながら上記のごとくつらい思い出が多い。戦争を経験した世代からは「ボーイングはB29を作った日本の敵だ。そんな飛行機を好きになるんじゃない。」と言われるかも知れないが、私は戦後産まれである。あらゆる意味で画期的な機体なのである。そしてなじみがある機体なのである。ボーイング747にもいろいろバリエーションがあり、747-400より前のモデル=クラシックジャンボ、747-400=ハイテクジャンボ、747-8=最新モデルに分類される。興味がない人からするとどうでも良いことであろうが、そういう細かい部分を見分けるのがファンとしては楽しいのである。初めて搭乗したのは大学2年生の時の全日空の秋田~羽田線におけるボーイング747SRであった。秋田から松本に行く際に利用したが、当時は秋田新幹線(盛岡~秋田間新在直通運転)、北陸新幹線(長野新幹線)はまだ開業しておらず、母が同伴していたのでまさか延々と列車に乗せるわけにもいかず飛行機での移動となった。墜落した日本航空123便の機体と同型機で機体記号も近くギョッとしたが、もちろん無事に到着した。初めての国際線は、大学の卒業旅行で台湾に行った際に利用した日本アジア航空の成田~台北線のボーイング747-200であった。2003年に初めて北米大陸に行き国際学会(American thoracic society 2003, Seattle)に参加した時もユナイテッド航空のボーイング747-400であった。2006年~2008年にかけてアメリカに留学した際、日本とアメリカを合計3往復したが、いずれも日本航空あるいはユナイテッド航空のボーイング747-400であった。2階部分があり、先頭部が膨らんだ特徴的な外観には、他の機体にはない格好良さがあった。大きな機体で安定して飛行するため安心感があった。その後日本のエアラインからは一気に退役が進み、2010年にAmerican thoracic societyに行った際は日本航空の成田~シカゴ線はすでにボーイング777に置き換えられていた。2012年にAmerican thoracic societyに行った際あえて全日空の最新鋭機のボーイング777-300ERではなく、コードシェア便のユナイテッド航空の成田~サンフランシスコ線のボーイング747-400を指定した。今のところそれが最後に搭乗したボーイング747である。ボーイング747-8は日本のエアラインには就役しておらず(貨物型は除く)、なかなか搭乗する機会がないのが残念である。

松本空港ジェット化と空飛ぶスポーツカー

松本空港がジェット化されたのが1993年である。それまでは伊丹線のYS-11が1日に2本飛んでいるだけの寂しい空港であった。空港ターミナルもどこかのローカル線の駅みたいなみすぼらしいものから立派な建物に代わった。日本エアシステムの飛行機はマクドネル・ダグラス社のMD-87が導入された。MD-87は「空飛ぶスポーツカー」と言われていた。機体重量に比しエンジンの出力が相対的に大きく離着陸性能が優れており、松本空港のような短い滑走路でも離着陸が可能とされていた。実際ものすごい加速力であっという間に離陸して高い高度まで上昇した。私は2回搭乗したことがあるが乗っていて楽しい機体であった。1回目は1994年の冬休み、松本から奈良に帰郷する際に利用した。私はすっかり忘れていたのだが、その日はクリスマスイブであり、客は私以外ほぼ100%若いカップルであった。どうやらデートコースに組み込まれていたようであった。思春期真っ盛りで、当時彼女もいなかった私にはつらく、肩身が狭い思いをした。鉄道を裏切った罰なのかと思った。2回目は当時スカイメイトという制度があり、26歳未満までの若者は安い料金で飛行機を利用できたのだが、スカイメイトの卒業が迫り、最後に乗っておこうと思い一人で山陰を旅行した際の帰りに出雲空港から伊丹空港まで利用した。製造会社のマクドネル・ダグラス社はボーイング社に吸収合併され、MD-87は早期に製造中止になり、日本エアシステムも日本航空に吸収合併され、日本航空からも比較的早期に退役した。伝説の飛行機であり、搭乗できて良かったと思う。

最後に

つらかったYS-11の思い出や航空機事故といったネガティブな部分から興味を持った飛行機であるが、今でも興味の対象であることには変わりがない。子供の頃、飛行機に乗ると必ず具合が悪くなりつらい思いをしていた私だが、大人になってからは乗り物酔いしなくなり水平飛行中はしっかりくつろいでいる。しかし、なまじ航空機事故に詳しいためリスクが高いとされるクリティカル・イレブン・ミニッツ(離陸後の3分間、着陸前の8分間)は今でも怖い。気流が悪くて揺れる時は生きた心地がしない。
昔は貧乏旅行と言えば鉄道であったが、今はLCCがあり、ますます航空機需要は高まっていくであろう。様々な航空会社の機体の整備状況が気になるが、無事を祈るばかりである。以前小学生の息子と飛行機に乗った際、「飛行機は事故の経験、貴い犠牲による改良、たゆまぬ航空会社の努力のおかげで今我々は安全な空の旅を楽しむことができるんだよ。感謝しないといけないんだぞ。」と言ったところ息子はきょとんとして意味を理解できていないようであった。しかし子供はそれくらい無邪気なのが良いのかも知れない。安全な空の旅が当たり前になってほしいものである。

北口良晃

ユナイテッド航空の成田~サンフランシスコ線のボーイング747-400と私  成田空港のボーディングブリッジにて(2012年5月)
ユナイテッド航空の成田~サンフランシスコ線のボーイング747-400と私 
成田空港のボーディングブリッジにて(2012年5月)

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