野球観戦
はじめに
前回のコラムに引き続き、私の趣味のお話をさせていただきたいと思う。今回は野球観戦についてだが、前回と同様に思い入れがありすぎて大変長くなることをご容赦いただきたい。当科の医局員にも趣味に狂っている奴がいるということを知ってもらえたらと思う。
野球を好きになったきっかけ
私は運動神経が人並み外れて鈍く、体育の授業が大変苦手であった。これは、両親ともに運動神経が鈍く血は争えなかったこと、家族そろって運動する習慣が全くなかったことが大きいと思う。また片眼だけ視力が悪い影響で、両眼視できないため距離感がつかめず球技は特に苦手であった。私の小学生時代、テレビゲームが一般化するまでは友達同士の遊びと言えば「空き地で野球」ということが多かったが、全くバットにボールが当たらなかった。体育の授業では、一部の教師に皆の前で罵倒され、傷つき、ますます運動が嫌いになっていった。それは高校時代まで続いた。精神的コンプレックスとなり、自信がなくなり、全てにおいて引っ込み思案になっていた。このことは私の成長過程・人格形成に暗い影を落としているのだが、野球をはじめとするスポーツ観戦はそれに反比例するように好きになっていった。自分にできないことを実現している人々にあこがれを持つようになったのだ。
私が子供のころ、サッカーは今ほど人気がなく、野球がダントツに人気があるスポーツであった。私は奈良に住んでおり、地域柄阪神タイガースのファンが多かった。私も自然な流れで阪神タイガースファンになった。1981年、小学校1年生の時に初めて阪神甲子園球場に連れて行ってもらった。阪神タイガース対広島カープの試合であった。1塁側のアルプススタンドに席を取り観戦したのだが、本当に全てが新鮮だった。フィールドで必死にプレーする選手たちは、動きに全く無駄がなく、文字通り躍動していた。スタンドで選手一人一人に対してトランペットで応援歌が演奏され、それに合わせて歌い、メガホンを規則的に振り、大声を出して必死に応援するファンの姿にも感銘を受けた。工藤一彦選手が先発投手で、藤田平選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手などの往年の名選手が出場していたのを覚えている。岡田彰布選手が大活躍して9対6で阪神タイガースが勝った。一番あこがれだった掛布雅之選手のサインボールを買ってもらった。このときから野球の、いや野球観戦の虜になってしまった。
阪神タイガースの思い出
野球観戦がいかに好きでも、奈良から阪神甲子園球場は遠く、小学生時代はおいそれと行けるものではなかった。親に連れて行ってもらわないと行けず、テレビでの観戦に甘んじていた。2回目に野球を見に行ったのは1985年、小学校5年生の時であった。阪神甲子園球場で阪神タイガース対大洋ホエールズ戦であった。このときは優勝争いをしており、すでに1塁側は内外野ともに満席で、3塁側の外野席であった。池田親興選手が先発投手で、ランディー・バース選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手の球史に残るクリーンナップを見ることができた。2対1で阪神タイガースが勝ち、帰りの阪神電車でも梅田駅でも「六甲おろし」が合唱されていた。阪神ファンの集団の一体感が心地よかった。この年見事に阪神タイガースは日本一に輝いた。私はリーグ優勝および日本一の瞬間をテレビで見た。21年ぶりの優勝であり、関西の盛り上がり方はすごかった。
しかしこの優勝には悲劇的な出来事が背景にあるのを忘れてはならない。この年の夏に日航ジャンボ機墜落事故があり、実に520名もの尊い命が失われたのだが、阪神タイガースの球団社長もその一人であった。選手達も大きな衝撃を受け、翌日から6連敗し一時は首位から陥落してしまったが、「社長のためにみんなで頑張ろうと、ナイン全員と首脳陣が誓い合った結果が再結束に繫がり、優勝に繋がった」という。セリーグ優勝時のウイニングボールが球団社長の霊前に手向けられた。ファンとしてとても誇らしかった。
改めて犠牲者の冥福を祈りたいと思う。
野球観戦仲間
高校生になり私の野球観戦人生に大きな変化があった。野球観戦好きの友達ができたのである。小学校6年生の時に同じクラスであったA君で、別々の中学校・高校に通っていたが、友達同士で夜外出することが許される年齢になり、二人で野球を見に行くようになった。ただしA君は近鉄バファローズのファンであった。私は阪神タイガースのファンであったが、地元企業である近鉄には愛着があったし、パリーグの野球も興味を持ってみようと思ったのだった。A君の父親は近鉄の関係者であり、ありがたいことに無料でチケットが手に入った。株主優待券もくれたので近鉄の電車賃も無料であった。近鉄藤井寺球場に近鉄バファローズ対日本ハムファイターズ戦を見に行ったのが最初であった。それを皮切りにすっかり近鉄バファローズのファンになり、藤井寺球場、日生球場、大阪球場にたびたび行くようになった。高校2年生の夏休みにはオールスターゲームを見に東京ドームまで行ったりした。野茂英雄選手がお気に入りで、当時予告先発がなかったため先発予想を立てて見に行っていた。時には平日のナイターを見に行ったりしたので、翌日の授業の予習ができず、英語の教師に怒られたことがあるのは苦い思い出である。
その後T君が野球観戦仲間に加わった。私と同じ小学校・中学校・高校に通っており広島カープのファンであったが、私と同じように近鉄バファローズにも興味を持ち、3人でよく野球を見に行くようになった。3人とも大学生となりA君は神奈川県在住、T君は東京都在住、私は長野県在住であったが、近鉄バファローズの試合日程をチェックし、夏休みなどでは試合に合わせて3人とも奈良に帰り、藤井寺球場に行った。東京で集合して東京ドーム、千葉マリンスタジアムで近鉄バファローズの試合を見ることもあった。横浜スタジアム、東京ドームで開催されたオールスターゲームも3人で見に行った。大学生時代は、私が長野県在住で球場まで行くのが大変だったが、それでも隙があれば野球を見に行くイメージであった。3人とも本当に野球が好きで、観戦の仕方も気合いが入っていた。ナイターでも昼に出発し開門と同時に球場入りするくらいの勢いであった。試合前の打撃練習を見て、気分を盛り上げていた。
近鉄バファローズの思い出
私が大学5年生の時、近鉄バファローズに大きな変化があった。本拠地が藤井寺球場から大阪ドームに移ったのである。藤井寺球場にはとても愛着があり、寂しかったが、いろいろ問題のある球場であったのは事実である。そもそもフィールドが狭かったし、住宅地の真ん中にあるためトランペットなどの鳴り物は禁止であった。スタンドは角度がきつく狭い、いわゆる絶壁球場であり、外野席の前にはフィールドの狭さをカバーするために(ホームランを少しでも減らそうと)金網のフェンスがそびえていた。夜になるとコウモリがどこからともなく飛んできていた。トイレは汚かった。それがいきなり広く設備の整った最新の球場になったのである。ユニホームも今風のものに変更された。こけら落としの試合になったのは近鉄バファローズ対読売ジャイアンツのオープン戦であった。A君のおかげで最上の席で(しかも無料で)見ることができた。期待のルーキー、前川克彦選手が先発投手で、巨人から移籍してきた石毛博史投手も登板した。彼らがしっかり巨人打線を抑え、オープン戦とは言え勝つことができ、アンチ巨人の私は笑いが止まらなかった。幸先良いスタートがきれたが、この頃の近鉄バファローズは非常に低迷しており、シーズンに入ると低迷を打破することはできなかった。私は大学生時代、合計20回近鉄バファローズの試合を見に行ったが、成績はなんと3勝17敗である。この大阪ドーム1年目の年は5回見に行ったが、勝ったのはこのオープン戦だけであった(公式戦は全敗)。
大学生時代、近鉄バファローズも阪神タイガースも低迷しており、暗黒時代であった。負けても負けても大好きで、何とか希望を見つけようと球場に足を運んだ。「今応援しているのが本当のファンだからな」と皆で言いあっていた。2001年、それまでの低迷がうそのような快進撃を見せ、近鉄はリーグ優勝を果たした。このとき私は医師になって3年目で大変忙しく残念ながら球場で観戦することはできなかった。優勝の瞬間は、職場で携帯電話のインターネットで知り、一人感涙した。北川博敏選手の3点ビハインドをひっくり返す「代打逆転満塁サヨナラホームラン、おつりなし」である。しかしそれからわずか3年後の2004年、親会社の経営状態悪化等があり、オリックスブルーウェーブ球団と「合併」することになった。「合併」と言えば聞こえが良いが、近鉄バファローズは消滅したのも同然であった。今まで好きで応援してきた球団が消滅するなんて考えたこともなく、ファンにとっては間違いなく悲劇であった。しかし観客動員が低迷し、大阪ドームの高額な使用料で経営難がささやかれていたのであきらめの気持ちもあったのは事実である。一緒に野球を見に行っていたA君は合併球団であるオリックスバファローズのファンになり、今でも応援しているようだ。しかし私は近鉄バファローズとチームカラーが違いすぎる合併球団にはなじめず、ファンになれなかった。私の方が、頭が固いのかも知れない。その後は阪神タイガースのみを応援するようになった。そう、近鉄バファローズが消滅しても、私には阪神タイガースがあったのだ。
メジャーリーグとの出会い
社会人となってからは3人とも忙しくなり野球場に野球を見に行くことは難しくなった。野球ファンとしては悶々とした日々を過ごしていた。2006年、降ってわいたように留学の話があった。同年秋にコロラド州デンバーに移住することになった。それまでコロラド州デンバーという土地を私は知らなかったのだが、調べてみるとメジャーリーグ球団があるではないか!私は野球場のある街に住むのが夢であったのでうれしかった。渡米して2日目にレンタカーを借りて真っ先に行ったのはコロラドロッキーズの本拠地、クアーズ・フィールドであった。シーズンオフであったので球場の周りを1周しただけだったが、心はすでにコロラドロッキーズのファンになっていた。シーズンが始まり、4月2日の開幕第2戦を見に行った。デンバーは標高1600メートルの高地にあり、4月に入ったとは言え、ひたすら寒かった。この試合は勝利し、幸先良いスタートを切れたが、この年のコロラドロッキーズは9月に入るまでは成績が低迷していた。しかしルーキーであるトロイ・テュロウィツキー選手が大ブレークし、松井稼頭央選手も好調で、マット・ホリデー選手、トッド・ヘルトン選手、ギャレット・アトキンス選手のクリーンナップはしっかり機能し、先発エースのジェフ・フランシス選手、リリーフエースのマニー・コルパス選手が軸として活躍し、戦力的には整えられていた。下位に甘んじていたのが不思議なくらいであった。果たして9月に入ってからは絶好調で、最後の15試合は14勝1敗でフィニッシュし、ワイルドカードに滑り込み、ついにはナリーグ優勝を果たした。私は、そのナリーグ優勝決定戦を観戦することができた。思えば日本では好きなチームが優勝する瞬間に立ち会うことはできなかったのだが、遠く離れたアメリカでそれが実現するとは、人生わからないものである。試合前から気合いが入っており、日本人の友達のO君と開門前から列の先頭に並んで待っていたところ、地元の新聞社の記者に取材された。外国人が二人、超ロッキーズ仕様の格好をしていたので、良いニュースネタだと思ったのだろう。二人ともうまく英語がしゃべれず申し訳なかった。試合は快勝し、歓喜の瞬間を迎え、前後の席の見知らぬアメリカ人とハイタッチを繰り返した。人種の違いなんて関係ない、皆が野球で心が一つになった瞬間であった。
本場アメリカの野球
アメリカで野球観戦にすっかりはまってしまった。デンバー、シアトル、セントルイス、ニューヨーク、ボルティモア、フィラデルフィア、サンフランシスコの各都市でメジャーリーグの試合を合計21回、バージニア州リッチモンドでマイナーリーグの試合を合計3回観戦した。日本の野球と大きな違いがあることに気がついた。アメリカの野球場はボールパークというのだが、野球専用であり、非常に見やすくできている。一部を除いてドーム球場ではなく、天然芝が美しい。特にデンバーのクアーズ・フィールドは周りが広々としており、周囲のクラシカルな街並みは美しく、コロラドロッキーの山並みが遠方に望まれ、本当に美しいボールパークである。日本の野球場は、野球のみならずコンサート等にも使用される多目的施設であることが多く、安全対策のフェンスが邪魔で、ボールパークに比べると洗練されていない印象が強い。野球だけに特化した施設を作っても採算が取れないという事情があると思われる。逆に言うとアメリカのボールパークは野球に特化しても採算が取れるほど野球文化が民衆に根付いていると言える。野球そのもののレベルもアメリカの方が高いと言わざるを得ない。メジャーリーグの野球は時に大味でとんでもない凡ミスが出るし、日本の野球のように緻密ではない部分があるが、驚異的な身体能力・強靱な身体に裏打ちされたパワー野球には目を見張るものがある。観客も本当にまじめに野球を見ており、いつもボールパークが一体となっている。観客のレベルも高いのだ。日本の野球もすばらしいがまだまだ本場の野球に学ぶ点が多いと感じる。
野球観戦仲間②
今まで妻、当科の医局関係8人、他の日本人留学生3人におつきあいいただきメジャーリーグの野球を見に行った。また留学中にティムというアメリカ人の男性と3回野球を見に行った。コロラド州デンバーに在住しているときに一時期英会話学校に通っていたのだが、ティムはその英会話教師であった。私とよく野球の話をしていたのだが、そのうち一緒に野球を見に行くようになった。「(ティムの)彼女が遠距離恋愛で今不在だから今俺は暇だ。野球を一緒に見に行こう」と言われたのが最初であった。あるいは一向に上達しない私の英会話能力を心配してのことだったかも知れない。7月4日は独立記念日でアメリカ人にとっては特別な日であり、特に若い人は、大事な人あるいは仲の良い人と過ごすことが多い。日本で言えばクリスマスイブみたいな感じであろうか。そんな日になんと私はティムと二人で野球を見に行った。決してやばい関係ではないことを強調しておきたい。留学が決まったのが前年の9月であり、独立記念日にアメリカでアメリカ人の男と二人で野球を見ることになるとは、1年前全く想像ができなかった。恒例の花火を見ながら不思議な気分になったものだった。ティムと観戦した3試合全てで、コロラドロッキーズがボロ勝ちし、ハイタッチを繰り返した。良い思い出である。
私が遭遇した伝説の名シーン
野球観戦を繰り返していると名シーンに出くわすことがある。特に縁があるのはイチロー選手である。1991年、春の選抜高校野球にて愛光大明電高校と松商学園の試合があり、イチロー選手が投手として出場していた。結局愛光大名電高校はサヨナラ負けで敗退するのだが、私はこの試合を甲子園で観戦していた。もっとも当時はイチロー選手がこんなにすごい選手になるとはつゆ知らず「ええ試合やっとるやん」と友達同士でのんきに言っていただけだった。1994年、藤井寺球場にて近鉄バファローズ対オリックスブルーウェーブの試合を見に行ったのだが、この試合でイチロー選手は日本新記録のシーズン185安打目を記録した(※130試合制での記録)。前日は無安打であり、この試合で決めそうな雰囲気があった。ヒットを打った瞬間、近鉄ファンも皆総立ちになり拍手と大歓声を送った。試合は近鉄バファローズのボロ負けだったが、この試合を見ることができて本当に良かった。その年以来スーパースターの仲間入りをしたイチロー選手であったが、元々投手であったことから、そのピッチングが注目されていた。そして1996年、東京ドームで行われたオールスターゲームで投手として登板したのだが、その試合を私は現地で観戦していた。試合前からパリーグの仰木監督はイチロー選手を投手として登板させると公表しており、皆の期待度も高かった。この試合で最も盛り上がったシーンであった。
好きな野球選手
好きな野球選手はたくさんいるが、個性派な中継ぎ投手につい注目してしまう傾向にある。阪神タイガースなら遠山奬志投手、伊藤敦規投手、ジェフ・ウイリアムス投手、近鉄バファローズなら佐野慈紀投手、清川栄治投手などである。特に佐野慈紀投手は非常に明るくユニークな人柄で、それまでパリーグ球団の選手は知名度が低くメディアへの露出が少ないのが常であったが、彼はメディアにも注目された。ギャグは非常に冴えており、島田紳助氏に「今すぐ引退してお笑い芸人になっても十分生活できる」と絶賛されるほどであった。自らを自虐的に「チビ、デブ、ハゲ」の三拍子揃っていると自慢していた。ワインドアップモーションで投球するときに帽子を飛ばして、禿頭をあらわにする「テカテカ投法(後のピッカリ投法)」が話題になった。私は佐野慈紀投手の「テカテカ投法」をデザインしたマグカップを持っており、今でも愛用している。ユニークな性格ばかりが注目されるが、もちろん投手としても実力があった。なにしろ中継ぎ投手として初めて年俸1億円を突破した選手である。スタンドから見る佐野慈紀投手は、まるでキャッチャーのようながっちりした体格であったが、力で押すタイプではなく、見かけによらず(?)技巧派であった。制球力があり、ストレート、スライダーには切れがあり、中継ぎエースにふさわしい投球を何度も披露してくれた。また近鉄の旧ユニホームがよく似合う選手であった。打ち取った後うれしそうにベンチに向かってダッシュする姿が微笑ましかった。
野球の応援スタイル
日本の野球では選手一人一人に専用の応援歌がある。例えば近鉄バファローズの中村紀洋選手の場合「我らの期待をそのバットに乗せて、ミラクルアーチを決めろノリヒロ」、タフィー・ローズ選手の場合「いざ進め、男タフィーこの時に全てかけて、豪快なアーチを勝利を待つスタンドへ」であった。特に近鉄バファローズナインの応援歌はほとんど覚えており、散々歌ったためか、今でも何かの拍子に口ずさむことがある。今でもメガホンを見ると当時一生懸命応援した思い出がよみがえる。皆で声を合わせて応援するのが本当に楽しかった。これが野球の応援の完成形だと思っていた。トランペットなどの鳴り物がない応援は寂しいと思っていた。しかしメジャーリーグの野球を見て、必ずしもそうではないことを知った。メジャーリーグの応援では鳴り物を使用しない。メガホンを振ったりせず、皆ボールの行方を真剣に見ている。グローブを持っている観客が非常に多い。これには一つ理由があり、ボールパークではフェンスが低いため、ボールが飛んでくる可能性があるので真剣に見ていないと危ないのである。鳴り物がないためフィールド近くで見ていると日本の野球観戦では聞こえないいろいろな音が聞こえてくる。選手の声、バットの風切り音、バットとボールが当たった音などである。観客の歓声が鳴り物で修飾されず自然な形で聞こえてくる。日本の野球の応援スタイルに慣れた私にとってとても新鮮な体験であり、このメジャーリーグの応援スタイルも洗練されていると思うようになった。
そもそも野球は「静」と「動」がはっきりしており、それに伴う緊張感を楽しむスポーツであると思う。様々な緊張感を伴う「瞬間」がある。投手がボールを投げる瞬間、ボールがバットに当たる瞬間、野手に捕球される瞬間、クロスプレーの瞬間、外野への大飛球がフェンスを越える瞬間などである。メジャーリーグの応援スタイルの方がこれらの「瞬間」が際立つように思う。ただし野球は団体競技なのに一人一人応援する楽しみがある希有なスポーツでもある。日本の応援スタイルの方が一人一人応援する楽しみが際立つように思う。それ故、私は日本の応援スタイルもメジャーリーグの応援スタイルも両方好きであり、甲乙付けがたいのである。
テレビ観戦
大学生時代、松本に住んでおり野球場でプロ野球を見るのは一苦労であった。いつもA君、T君と連絡を取って、お互い都合がつけば見に行っていたが、当然休みが取れるとき、経済的に余裕があるときに限られていた。そうではないときは、テレビで観戦していた。ケーブルテレビの有料スポーツチャンネルを契約すれば全ての試合を見ることができたかも知れないが、経済的な余裕が少ないこともあり契約しなかった。というよりは、もし契約したら廃人になるまで野球を見続けるかもしれず踏み切れなかったというのが大きい。しかし地上波の巨人戦は見られる限り見ていた。また当時は日本シリーズやオールスターゲームの中継も全試合やっていた。野球中継の時間に合わせて夕食を準備していた。私はお酒を好まないのでビールと枝豆はなかったが、「昭和の野球好き親父」そのままであった。私はアンチ巨人なのでいつも巨人の対戦相手を応援していた。いろいろな歴史的シーンをリアルタイムで見た。当然ながら良いシーンもあれば残念なシーンもある。特に印象深いのは1994年の巨人対中日ドラゴンズとの優勝決定戦、巨人の槙原寛己投手の完全試合、バルビーノ・ガルベス投手が審判に向けてボールを投げつけた試合、桑田真澄投手がピッチャーフライを追いかけて肘を怪我した試合、ヤクルトスワローズのテリー・ブロス投手のノーヒットノーラン試合、小早川毅彦選手の開幕戦3連続ホームラン、中日ドラゴンズの野口茂樹投手のノーヒットノーラン試合などである。またいろいろな名選手を見ることができた。全盛期の巨人の斉藤雅樹投手、ヤクルトスワローズの伊藤智仁投手、横浜ベイスターズの佐々木主浩投手の投球は凄まじく、打者が全く打てる気がしなかった。巨人の松井秀喜選手の打棒は恐ろしく、調子が良いときはどんな投手でも手が付けられなかった。そんな中で阪神タイガースの遠山奬志投手は「松井キラー」として活躍し、打ち取った後「今夜も遠山桜は満開です!!」という実況が忘れられない。
最も感動したのは近鉄バファローズの山本和範選手がオールスターゲームでホームランを打ったシーンである。右耳の難聴というハンディキャップを乗り越え、過労で倒れるほどの猛練習を続けてプロ野球選手となった苦労人なのだが、2回所属球団から解雇され、そのたびに不死鳥のごとく復活し、チームの中心選手として長く活躍した。また謙虚な人柄で、ファンに非常に愛された。1995年、38歳の時に怪我や髙年俸を理由に、長年所属したダイエーホークスから戦力外通告されたが、翌年近鉄バファローズの入団テストを受け移籍し大活躍、ファン投票でオールスターに選出された。これだけでも凄いことだが、ダイエーホークスの本拠地である福岡ドームの試合に出場し、なんとホームランを打ちMVPに選出された。お立ち台で感極まって「(しばらく絶句した後)まさか打てると思ってもいませんでした、まぐれです」と涙を流した。私も思わずもらい泣きしてしまった。野球は筋書きのないドラマと言われるが、このようなドラマがたくさんあるから野球観戦はおもしろいし、やめられない。
社会人となり、結婚してからはテレビを見る時間がなくなり、そもそも野球中継も少なくなり、テレビ観戦もほとんどできなくなってしまった。
ラジオ観戦
大学生~独身時代は一人暮らしで存分にテレビ観戦できたが、高校生時代まではそうではなかった。応接間にしかテレビはなく、ずっとテレビを見ていると親がうるさかった。そもそも私にはテレビのチャンネル権がなかった。そこで夜自室でラジオを聞いていた。ラジオ大阪の「近鉄バファローズナイター」あるいは関西のローカル局の阪神タイガース戦の中継を聴くことが多かった。ラジオでは当然ながら画像はなく、実況を聞いて想像するしかないのだが、外野への大きなフライ、本塁クロスプレーなどは自分の目で確認することができずもどかしい時がある。しかし勉強の片手間に聞くことができるし、特定のチームに肩入れした実況を楽しむことができる。テレビの地上波においては、全国放送の野球中継であからさまに特定のチームに肩入れすると批判されるため不可能なのである(それでも偏った解説をする野球解説者はいるが)。もちろん「近鉄バファローズナイター」は思いっきり近鉄贔屓だったし、関西のローカル局の阪神タイガース戦の中継は阪神贔屓の実況・解説が多かった。時々他球場の途中経過・試合結果の情報が入るので全試合の状況を把握できた。試合の最後まで中継してくれることが多く、もしそれができない場合も次の番組の途中でまめに経過を伝えてくれた。ラジオは、受験生時代の励みにもなった。1992年、阪神タイガースは暗黒時代の最中であったが、亀山努選手、新庄剛選手のいわゆる亀新フィーバーもありそれまでの低迷がうそのように快進撃を続けていた。結局優勝を目前にしていたにもかかわらず、優勝はできなかったが、多くのファンに希望を与えてくれた。私は当時高校3年生で、成績は前年までの阪神タイガースと同様に低迷していたが、「阪神タイガースに続け!」「あの阪神タイガースですら強くなったのだから、自分も何とかなるに違いない」と励みにして勉強に燃えたのを覚えている。そのおかげで今があると思っている。
ネット観戦
今はインターネットのポータルサイトで試合経過・結果をチェックし、動画を見たい時はyoutubeで見ている。かつての名シーンが簡単に動画で見られるようになったのは便利である。今でも時々名シーンを見返すことがある。よく見るのは先にも述べたシーンも含まれるが、
① 9.7の決戦 阪神タイガース中村豊選手の決勝ホームラン
② 近鉄バファローズ北川博敏選手の3点ビハインドをひっくり返す「代打逆転満塁サヨナラホームラン、おつりなし」
③ 近鉄バファローズ山本和範選手 オールスターゲームでホームラン
④ 阪神タイガース川藤幸三選手 オールスターゲームで”1.5塁打”
⑤ 同じく川藤幸三選手 最終打席
などである。いわゆる”珍プレー好プレー”や、審判の誤審などを集めた動画はよく見ている。この中でも③と④はリアルタイムでテレビ観戦していた。④は小学生時代だったが、良く覚えている。川藤幸三選手の現役最終年であったが、初めてオールスターに選出された。彼が放った痛烈な打球は左中間を抜けていき、一塁ベースコーチの王貞治監督の指示で二塁を狙ったが、皆が思った以上に鈍足で、秋山幸二選手→石毛宏典選手→大石大二郎選手の矢のような中継プレーに阻まれ二塁で悠々アウトになった。選手・観客・解説者は爆笑し、アウトをコールした二塁塁審さえ爆笑していた。この試合のテレビ中継で、ベンチレポートを務めていた元チームメイトの小林繁氏は、インタビューブースに現れた川藤選手に対し「先ほど見事な“二塁打”を放った川藤選手です!」と呼び掛け、川藤選手は「じゃかましいわい!!」と答え、また爆笑を誘った。たった1回の打席でこんなに日本中に笑いを提供できる選手が他にいるだろうか。阪神タイガースにとって貴重なムードメーカーであった。現在も阪神タイガースのOB会長として活躍され、若い選手達に寄り添い鼓舞し続けている。
おわりに
私はこのようにかなり濃い「野球人生」を歩んできたが、野球観戦のおもしろみは、文字通り命がけでプレーする選手達のドラマにつきる。彼らのすばらしい生き様を見て感動し、自分の生き方を反省することができるのである。
今年の夏休みに家族で大阪ドームに行き阪神タイガースの試合を観戦したのだが、息子にとっては初めてのプロ野球であった。ぜひ阪神タイガースのファンに育て上げて、将来野球の話で盛り上がりたいものである。
もし信州大学の関係者で野球に興味がある方がいたらぜひ声をかけていただけたらと思う。当科に「野球観戦部」を作るのが私の夢である。
北口良晃