吉田松陰の恋
私は『歴史』が趣味の一つなので、手に取る本はほとんどが歴史に関連した物である。その中で最近読んだ一冊を紹介しようと思う。
古川 薫 氏による「吉田松陰の恋」(文春文庫)という本である。初版は昭和56年であり、2010年に第2刷が発行されている。この本は史実に忠実な歴史書ではなく、歴史小説であり、歴史に興味が無くても楽しく読むことができる。しかし歴史小説といっても史実を基にして脚色されているもので、史実を曲げるような虚構小説ではない。舞台は幕末から明治初期、いわゆる黒船来航~明治維新にかけての時代の、現在の山口県(長州)を中心に描かれた5編の短編小説である。それぞれ主人公が異なるが、時代と舞台が同じなので、微妙に連続性もあり、単なる短編小説を併せて一巻の文庫にしたというものではない。著者は山口県の出身で、出身地の歴史、出身者ならではの風景描写も素晴らしい。
はじめの「見事な御最期」は藩という組織同士の強弱や都合によって翻弄された3名の武士の、切腹に臨んでの葛藤、意思表示、気持ちの揺らぎを、まるでその場に居合わせたかのように描写したものである。意思に反して切腹させられる3士の歳が異なる設定で、年齢なりの考え方、武士としての矜持など様々な心の動きと切腹(=個人の死)という究極の場面設定、周囲の景色や時間によって異なる雰囲気の描写が、まるで映画を観ているかのように感じさせ、読者を物語の中に引き込む。
「吉田松陰の恋」も本書の中の一遍である。本編は映画「獄(ひとや)に咲く花」(2010年公開)の原作となる。吉田松陰といえば、小中学校でも習うので歴史に興味の無い人でも知っていると思うが、現在のNHK大河ドラマ、「真田丸」の一つ前に放送されていた「花燃ゆ」の主人公の兄に当たる人物であり、近年とくに注目されていると思う。一般に、思想家、指導者、倒幕論者として知られ、私塾「松下村塾」を開き、後の明治維新で活躍する多くの若者を育てたが、その急進故に投獄、処刑されたとされる。ちなみに松蔭の師である佐久間象山は長野県長野市松代町の出身である。本編はこの人物の、「人間」吉田松陰の部分にスポットを当てた作品である。作者自身が発見した松蔭およびもう一人の主人公、高須久子が詠んだ歌を題材としてこの短編が編まれている。発表当初は歴史家からの批判も多かったようだが、松蔭が野山獄に投獄されていた際に同じ獄中にいた女囚、高須久子との間で交わされた歌を基にして作品が書かれている。史実としては単に獄中に詠んだ歌が発見されただけであるのに、小説家としての素晴らしい考察と情景の描写が読者にある種の感動、すがすがしさを与える(史実がどうであるかは解釈にもよると思うが、松蔭と久子との間にそのような特別な感情は一切無かったという説もあることも併記しておく)。本編は高須久子が一人称として語る形式をとっているため、話は久子の考えとして綴られる。この点、作者は松蔭研究者からの批判がでることを予想してあくまでも久子の考えとして描写したのではないかと思われ、さりげなくそれができる作者の能力に感銘を受ける。
その他の3編も秀逸で、すべての作品にその時代に生きた人間としての葛藤、処世の違い、運と不運などが歴史的事実から決して外れない範囲で巧妙に描かれている。
私は歴史が趣味といっておきながらこれまであまり薩長の側からみた幕末、明治維新に興味を持っていなかった。本作品は小説であり、すべてが事実ではないが、吉田松陰、高杉晋作、伊藤博文、井上馨など、誰もが知っている人物の、誰もが知っているわけではない生き様を、古川 薫 氏という歴史小説家による味付けによって大変興味深く描かれており、今後しばらく私は薩摩、長州で活躍した人物のことについて勉強することになると思う。
安尾 将法