鉄道趣味

はじめに

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

本年第一回目のスタッフコラムであるが、私の趣味のことを書いてみたいと思う。私の趣味はそれなりに多岐に渡っているが、最ものめり込んでいるのは鉄道である。多くの人にとって興味の対象外であろう鉄道のどこに魅力があるのか、鉄道趣味とはいかなるものか私なりに述べていきたいと思う。アラフォーのおっさんが汽車ぽっぽの話をして、かなり格好悪いが、「こんな世界もあるんだ」という軽い気持ちで読んでいただければ幸いである。

鉄道との出会い

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男の子にはありがちだが、私は乗り物に異常に興味を示す子供だった。物心つく前から鉄道、自動車等の乗り物に関する絵本を好み、それを手本にして鉄道の絵をよく描いていたようである。多くの子供が興味を持つ戦隊もの、ヒーローもの、ディズニー等には全く興味がなく、ある意味現実主義だったのかも知れない。要は変わったガキであった。いつ鉄道に興味を持ったのか、なぜ鉄道に興味を持ったのかは今となってはわからず、半ば本能的に飛びついたのかも知れない。いつ初めて鉄道に乗ったのか定かではないが、私の最も古い記憶は幼稚園年少、おそらく5歳の時に母親に連れられて当時就役したばかりの近鉄特急ビスタカーⅢ世(30000系)に乗り、母親の友達の家に行った時のことである。二階建ての電車は迫力があり、子供心にすごい列車だなと思ったので今でも記憶に残っているのかも知れない。よく小さな子供がするように靴を脱いで窓に向かって座り、景色を眺めていた。それから37年の時を経たが、ビスタカーⅢ世は大規模な更新改造を受けつつも全車健在で活躍を続けている。昨年5月に奈良に帰郷した際に運良く乗車することができ、幼なじみと再会したような感慨を覚えた。

ちなみに乗り物に異常に興味を示すのは私の兄も同様であった。ただし私の兄は自動車一筋で、本職となり今はトヨタ自動車のディーラーマンである。なぜか鉄道を嫌っており、子供の頃、鉄道が優れているか、自動車が優れているかでよくけんかもした。ただ私は自動車が決して嫌いではなく、むしろ人並み以上に自分の車にこだわりと愛情を持っている。手洗い洗車・車磨きは私の趣味の一つであり、車が汚れると洗車したくてたまらず非常に落ち着かない。しかし自動車を運転するよりは鉄道に乗っている方が好きだったりする。

鉄道の何が魅力なのか

一言でいうと趣味としての幅が広いのである。鉄道は歴史があり、地理的な結びつきが強い。この点においては自動車や飛行機などの他の乗り物趣味の比ではない。駅ひとつひとつに街があり、人々の生活があるのである。鉄道ファンは一般的に日本の地理に異常に詳しくなれるし、列車に乗ることでその地方の人々の生活を垣間見ることができるのである。鉄道の歴史は近代史とも密接にリンクしており、この歴史的・地理的な結びつきを背景に鉄道趣味と一言で言っても極めて多彩であり、様々な「派閥」がある。写真を撮るいわゆる「撮り鉄」、路線に対する興味から列車に乗る「乗り鉄」という言葉がマスコミによって流布されているが、その他鉄道車両に焦点を当てて楽しむ「車両派」、鉄道模型を買ったり、作ったり、改造したりする「模型派」、廃線跡を検証する「廃線跡歴史派」、時刻表を検証する「時刻表派」、走行音・車内チャイム・ミュージックホーンなどの鉄道の音にこだわる「音鉄」等である。またサブ的な分類として私鉄を専門にする「私鉄派」、国鉄(※日本国有鉄道:JRの前身)およびJRを専門とする「国鉄・JR派」等があり、全て挙げていると枚挙にいとまがない。ちなみに私は現在「車両派」、「模型派」であり、特に専門としているのは「気動車」、「近鉄特急」である。おそらくもっともメジャーな派閥は、いわゆる「撮り鉄」と思われるが、私は駅頭でスナップ程度にしか写真を撮らないので属していない。この項を書きすぎるとますますあきれられるのでこのあたりで自重しておきたい。

最近の“鉄道ブーム”を考える

最近マスコミが盛んに「鉄道ブーム」などと喧伝しているが、私は半信半疑である。私の周りにも鉄道好きは一定の割合でいたが、決して増えているわけではない。医療系の仕事を志す人に鉄道好きは少ないというバイアスがかかっている可能性はあるのだが、当科にローテーションしてくる研修医に鉄道ファンは皆無であり、若者の間で鉄道ファンが増えているという実感は全くない。「鉄道アイドル」なるものが登場したのはここ数年のことと思われ、以前見られなかったことではあるが、失礼ながら「女性の鉄道ファン」という希少性・意外性を武器にして名前を売るための手段として鉄道を利用している人が(少なくとも一部は)いるような気がしている。各地に鉄道博物館ができ、どこも賑わっているようであるが、小さい子供のいる家庭の遊び場のニーズにうまく合致した部分が大きい気がしている。廃止になる列車があると駅に鉄道ファンが群がるのが最近ニュースになるが、確かにデジタルカメラの普及に伴い鉄道を撮影する人口は増えているであろう。しかし鉄道ファン全体の人口は不変なのではないかと思う。表現は難しいが、鉄道趣味はディープな世界であり、ブームだからといって手安く始められるものではない。本能的に鉄道が好きでないと、一時的に興味を持っても続かないのである。鉄道の車両を見て単なる機械としてとらえるようであれば失格、まるで生き物を見るように接することができれば鉄道ファンとしての資質があると判断できると個人的に思う。そのためには車両の「人生」を理解しなければならず、かなり敷居が高いのである。

“オタク”の代表的趣味の一つ

私には7歳になる息子がいるが、自分と同じように鉄道ファンになってほしいかと言われると全然そんなことはない。鉄道趣味は、非常に幅が広く楽しめるのは事実だが、一人で楽しめてしまうため「一人上手」になってしまう。その結果性格が内向的になってしまう傾向がある。どうしても気持ちの悪い「オタク」のイメージであり、女性にもてない趣味の代表でもある(私の場合その他の理由があることを否定しないが)。私は何らかの用事で東京に行った時、ついでに秋葉原や新宿の鉄道模型専門店に行くことが多い。その際いかにも人づきあいが下手そうな「オタク」の集団を目の当たりにして嫌悪感を覚えてしまうことがあるのだが、私も同じ目で見られているに違いない。息子にはなるべくなら鉄道ファンになってほしくないと思っているが、私のように本能的に飛びついてしまうのなら仕方がないと思っている。一緒に鉄道に乗り、鉄道模型店巡りをするのはきっと楽しいだろうが、親として複雑な心境ではある。

精神安定剤

私にとって趣味は精神安定剤である。鉄道のみならず野球観戦、自動車、飛行機、パソコン関連等も好きなのだが、昔から気持ちが沈んだときには趣味に走っている。学生時代、趣味が多すぎて暇がないくらいであり、学業の足を引っ張っていた側面もあるが、趣味が役に立つときもある。2006年秋から2008年夏にかけて私はアメリカに留学していた。一般的に留学というと楽しい、華やかというイメージであり、それは事実であるが、私の能力不足、臆病で内向的な性格が災いしてつらいことも多かった。どうにも行き詰まった時、趣味によって現実逃避していたおかげで無事日本に帰ることができたといっても過言ではない。アメリカでも模型店めぐりをして鉄道模型を買いあさっていた。往復600キロの道のりを車で往復し有名な鉄道模型店を訪ねたこともあった。自宅から車で30分ほどの距離に模型店があったのだが、その近くにAshlandというのどかな駅があり、その構内でただぼーっとして過ごすこともあった。一時的にせよ無心になることができたので精神的な恒常性を保つことができたと思う。私はもし趣味がなければ精神的に安定しない弱い人間と思われ、私にとって趣味は本当にありがたい存在である。

ブルートレインブーム

鉄道ファンにも「ブーム」がある。私が幼少時、鉄道に関する絵本を開ければ最初にブルートレインが載っていた。多くの鉄道少年にとってあこがれはブルートレインであった。ブルートレインという言葉を知らない人のために説明するが、国鉄時代に製造されたブルーに塗られた寝台車の一群を指す。形式名は20系、14系あるいは24系といい、寝台特急を中心に全国津々浦々で活躍した。残念ながら2015年に寝台特急「北斗星」を最後に全廃されてしまった(一部の車両は2016年3月まで急行「はななす」で残存)。夜行需要は確実に存在するのだが、分社化された影響や採算性、要員等の問題で廃止されてしまったのは大変残念である。かつて昭和50年代を中心にブルートレインにあこがれ、駅にはカメラを持った少年が群がった時代があり、「ブルートレインブーム」と呼ばれている。私はブルートレインブーム真っ盛りの時代に育ったため特別な思い入れがあり、初めて乗車したのは小学校3年生の夏休み、「日本海4号」(乗車区間:秋田~京都)であった。今でも22時32分秋田駅を静かに発車した時の情景が鮮明に思い出される。寝台車独特のこもった走行音、時々先頭の電気機関車から吹鳴されるもの悲しげなホイッスル、「ハイケンスのセレナーデ」の車内チャイムが、私にとってとても新鮮であった。朝になって敦賀駅で電気機関車が交換されるのを見物し、湖西線に入って琵琶湖を眺めながら駅弁を食べた。京都駅に到着して降りるときは非常に名残惜しく、12時間乗ってもまだ乗り足りない気がした。まさに夢のような一夜であった。その後も何十回とブルートレインに乗車する機会があったが、乗るときの喜び、高揚感はいつまでたっても変わらなかった。今鉄道に関する絵本を開ければ最初に新幹線が載っていることが多く、時代は変わったのだと実感する。

鉄道模型

幼稚園年少の時のクリスマスプレゼントが鉄道模型であった。昭和54年のことである。電気機関車1両(EF58)とブルートレイン5両(24系25型)、小さなエンドレスの線路であった。そのブルートレインは現存しており、人生の大半をともに過ごした最古の所有物である。そのブルートレインであるが、小学生時代手荒く扱ったせいで哀れな状態になっていたが、中学生時代に車体を再塗装し、窓周りの色入れを行い、飾り帯は細く切ったアルミシートで表現して面目を一新した。各メーカーから発売されている最新ロットのブルートレインと比較すると今となっては大幅に見劣りするが、大変愛着がある特別な車両たちである。その後高校生時代までは順調に増えており、完成品を買うだけではなくキットを組み立てることに熱中していた。大学生になってから勉強、アルバイトその他で多忙ということもあり鉄道模型から疎遠となってしまった。10年以上ご無沙汰であったが、アメリカ留学中に自宅近くに鉄道模型屋があり、再び火が付いてしまった。昔と違って大人買いできるようになりものすごいペースで増えている。高校時代までに購入した車両はすでに20年以上経年しているが、当時念入りに整備したおかげで現在でも全く問題なく走る。高校時代に購入して長年死蔵していたキットがあったので、組み立てて塗装し完成させたが、アラフォーで以前のような集中力がなくなり、視力も落ちた私にはうまく行かず自らの衰えを実感してしまった。

好きな車両

私が、特に好きな車両は「国鉄181系気動車(通称キハ181系)」、「ブルートレイン」、「近鉄特急」である。あまりマニアックな話をしても仕方がないので、キハ181系についてのみ述べてみたい。キハ181系は大馬力ディーゼルエンジンを搭載した、当時としては画期的な高性能車として1968年より158両が製造された。同年特急「しなの」でデビューしたが、エンジンの冷却系等に弱点を抱えており中央西線の連続急勾配・狭小トンネルでは負荷が大きすぎた。その結果エンジントラブルが続発し、列車の運行が危ぶまれる事態にまで至り、検修陣は大変苦労したようである。その後全国で電化が進み、非電化区間の残った中国・四国地方に転属した。初期故障は多かったが、その後安定的に稼動することができるようになり40年以上の長きに渡り活躍した。水平対向12気筒、排気量30Lという大型エンジンから発せられる重々しいディーゼルサウンド、高速走行時の「キーン」というターボサウンドが独特であった。実用性を兼ね備えた優美な外観も相まって、何とも言えない重厚感があり、風格があった。実は排気ガスの臭いも好きで、キハ181系が駅で停車している時に跨線橋の上に行き、排気ガスの臭いを嗅いでいたことがあり、端から見れば完全に危険人物だったかも知れない。キハ181系は、人間で言えば「美しい声を持つフェロモンを発する端正な顔立ちの美人」であり惚れないわけにはいかなかった。旅行中に山陽本線・山陰本線を疾駆するキハ181系を見かけることがたびたびあり、特急「はまかぜ」「いそかぜ」などで合計4回長時間乗車する機会もあり、その勇姿は目に焼き付いている。老朽化のため2010年特急「はまかぜ」を最後に引退した(一部はミャンマーに譲渡された)。最初はトラブル続きで大変だったものの、40年以上の長きに渡り活躍し、最後まで美しく整備され特急として使命を全うできた幸せな車両であったと思う。現在特急「しなの」として走っている383系電車は非常に高性能で、車体傾斜制御を駆使して急勾配、急カーブをものともせず高速走行しているが、キハ181系時代の苦難の道のりを思うと隔世の感がある。

旅行の行き先

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ある年の冬休みに家族で旅行に出かけることになった。「どこに行きたい?」と聞かれ、私は「城崎温泉」と即答した。城崎温泉の魅力については今さら述べるまでもないことだが、私は山陰地方の素朴でのんびりした空気が好きだし、温泉も好きだし、カニも大好きなのである。しかし旅行の本当の目的は別にあったのである。先ほど述べたキハ181系に乗ることであった。キハ181系は老朽化に伴う後継車種への置き換えが予定されていたのでぜひ乗っておきたいと思い、大阪から城崎温泉までキハ181系の特急「はまかぜ」に乗車した。松本から城崎温泉に行くときは、京都駅で特急「きのさき」に乗り換えるのが最短経路である。しかし少し遠回りをして大阪駅で途中下車をしてゆっくり昼食を取った後、大阪駅から念願の特急「はまかぜ」に乗ることにした。私はこのように乗る列車を決めてから目的地を決めることが多い。普通は目的地を先に決めた後、移動する手段として列車なり車なりを選ぶと思うが、私の場合列車に乗ること自体が目的であり、行き先は後から考えることが多い。乗車している約3時間、写真をたくさん撮り、乗り心地を堪能したが、妻からは「遅い、古い、疲れた」と言われ、不評であった。ただし温泉とカニを堪能できたので城崎温泉は気に入ってもらえたようであった。それから程なくキハ181系は廃車されてしまった。あのとき最後のお別れができて本当に良かったと思う。

鉄道食いだおれ① 駅の立ち食いそば

私は中学生、高校生時代、「青春18切符」を使って鉄道乗りつぶし旅行に頻回に出かけていた。青春18切符は国鉄・JRの路線の普通列車(快速を含む)が丸1日乗り放題になる切符で、当時2200円(税別)であった。時刻表を片手に一日中列車に乗りっぱなしのことが多く、どこで食事を取るかが問題であった。子供一人でレストランに入るのは恥ずかしく、値段的にも厳しかった。駅弁は普通列車の中では食べづらいことが多かった。そこでよく利用したのが駅の立ち食いそばであった。特によく利用したのは岡山駅、姫路駅であった。中国地方の交通の要衝であり、乗り換え時に利用することが多かったのである。西日本を中心にうどんを選ぶことができる場合も多いが、個人的にはそばの方が好きで、「信州そば」などで舌の肥えた人には厳しいかも知れないが、私にとってはおいしく、コストパフォーマンスが良かった。「日本一の駅そば」とされている北海道、宗谷本線の音威子府駅の駅そばも食べたことがある。四国、土讃本線の阿波池田駅の「祖谷そば」も食べたことがある。しかしどこの駅が一番おいしいかと言われると答えに窮する。どこもおいしいのである。その中で私にとって特別な存在の駅がある。それは名古屋駅である。名古屋駅では「そば」ではなく「きしめん」を食べるので同列に比較できないが、私にとってこの「きしめん」は駅の立ち食いそばを超越した存在である。あの細長い麺のつるっとしたのど越し、かつおだしが効いた風味はすばらしく、駅で手軽に食べることができるのはありがたい。思い出すだけでもヨダレが出そうである。今でも名古屋駅で新幹線から特急「しなの」に乗り換える時は必ず30分「きしめんタイム」を設けている。

鉄道食いだおれ② 駅弁

昔は大きな駅に駅弁の立ち売りがいて、売り子から列車の窓越しに、あるいはドアの近くで駅弁を買ったものだった。現在の優等列車は窓が開かない車両がほとんどで停車時間も短くなり、売り子の姿は一部を除いて消えた。また近年駅構内の売店あるいはコンビニエンスストアが充実し、昔ながらの駅弁は減少している。駅弁の多くは地元の零細な業者が製造販売を行っており、コンビニなどの大手の業者が販売する廉価な弁当に対抗できなくなってしまったのである。現在駅弁は地域の特産品という側面が強く、駅以外での場所での販売が主力になった駅弁も多い。昔のような情緒はなくなってしまったが、それでも駅弁は鉄道旅行の楽しみの大きな部分を占めると思う。私が一番好きだったのは、長野新幹線開業前の話であるが、横川駅で駅弁の立ち売りから買い、特急「あさま」の車内で食べた「峠の釜めし」である。もともとおいしい駅弁ではあるが、あの信越本線の碓氷峠の美しい景色を見ながらガタガタ揺れる車内で食べるというシチュエーションが、そのおいしさを倍増させていた。「峠の釜めし」食べるのが信越本線の特急に乗った時の「儀式」であった。いつも横川駅では「峠の釜めし」が飛ぶように売れていたので同じことを考えている人がたくさんいたのだろう。列車の中だけではなく「おぎのや」の横川本店で「峠の釜めし」を食べたこともあり、横川機関区に集う碓氷峠専用の補助機関車を眺めながら食べる「峠の釜めし」は最高だった。現在横川機関区の跡地には「碓氷峠鉄道文化むら」があり、子連れで楽しめると思うので皆様も行ってみてはいかがだろうか。

鉄道食いだおれ③ 食堂車

初めて食堂車で食事をしたのは小学校3年生の夏休み、「白鳥3号」であった。大阪から青森まで長駆1040kmを13時間かけて走る特急列車であった。所要時間が長く、昔は少なからず乗り通す客もいたため食堂車が連結されていた。新潟を過ぎてから食堂車に行き日本海に沈む夕日を眺めながら食べたカレーライスの味が忘れられない。景色がどんどん変わっていくレストランなど食堂車をおいて他はなく、鉄道独特のリズミカルなジョイント音、揺れなどが加わり、これらが非日常性を醸し出し、同じものを食べてもおいしいと感じてしまう魔力があるのである。翌年の夏休みも同じ列車に乗り、やはり食堂車に行った。しかしその直後の1984年10月に食堂車は廃止されてしまった。高校1年生の時に上野発札幌行き寝台特急「北斗星1号」に乗車し、食堂車で食事をしたが、予約制のフランス料理のコースを一人で食べるのは気恥ずかしく妙に居心地が悪かった(一人で行くなとツッコミが入りそうだが)。その後特急列車の食堂車は減少の一途をたどり、利用する機会は減少した。現在でも列車内で供食サービスを行う列車は存在し、むしろ最近増えてきている。昔の定期的に運行されていた特急列車の食堂車と違って、大部分は食事そのものを売りにしている不定期運航の観光列車・クルーズトレインであり、個人的にはあまり食指が動かないものが多いが、近鉄特急「しまかぜ」のカフェ車は食堂車と呼ぶにふさわしい設備・サービスを提供していると思う。近鉄特急ネットワークの一翼を担いつつ、フラッグシップとして君臨し、列車としての「格」も申し分ない。賢島に旅行する際利用したが、いや、むしろ「しまかぜ」に乗るために賢島に旅行したのだが、あんなに楽しく食事することができたのは「白鳥」以来であった。「しまかぜ」は非常に人気のある列車で切符も取りづらい状況が続いているが、やはりカフェ車の魅力が大きいと思う。

旅行資金

私は学生時代から旅行に行くことが多かったが、よく「お金はどれくらい使った?」と聞かれる。「旅行=お金がかかる」というイメージが強いためと思われる。しかしそれは必ずしも真ではなく、世の中には「貧乏旅行」というジャンルが存在する。先にも述べたが、私は「青春18切符」を使って鉄道乗りつぶし旅行にでかけることが多かった。「青春18切符」は国鉄・JRの路線の普通列車(快速を含む)が丸1日乗り放題になる切符で、当時2200円(税別)であった。この切符と夜行の普通列車を利用することで安価に遠くまで行くことが可能であった。高校生時代、自宅のある奈良から東京に2回旅行したが、2回とも普通列車で往復した。当時東海道本線の東京~大垣に375M(下り), 372M(上り)という夜行普通列車(通称「大垣夜行」)が走っており、これを使えば丸1日東京で行動することができたのである。宿代も節約でき一石二鳥であった。同じように九州へも「ムーンライト九州」という夜行快速列車を利用して旅行していた。大学生時代、松本から奈良まで帰郷する際、普通列車で行くことも多かった。医師国家試験の際、受験地である名古屋に行く時も普通列車であった。時間と体力があり余っていた若い時だからこそできる芸当であった。このようにして貧乏旅行を繰り返していた私であるが、たまには貯金をはたいて大好きなブルートレインに乗ったり、安いビジネスホテルに泊まることもあった。鉄道ファンではない友達と旅行するときは、人並みに観光地に行き、温泉宿に泊まることもあった。普通の人以上に旅行にお金を使ってきたのは事実であり、総額がどれくらいになるのか皆目見当がつかない。しかし鉄道趣味以外にはほとんどお金を使わず、普段は倹約していたので問題はなかった。おかげで、自分で服を買ったことがなく、おしゃれとは全く無縁であった。そしてそれは今も変わらないのである。

旅行の相棒

私は一人で旅行に行くことが多かったが、友達と一緒に行くこともあった。私の旅行は非常に特殊であり、貧乏旅行・鉄道旅行に理解のある友達に限られるのだが、それでも合計7名の友達と旅行したことがある。一度だけ3人で、その他は2人で旅行した。残念ながら全員男性である。その中でもY君と行くことが特に多かった。Y君とは同じ小学校~中学校に通っており、中学校2年生・3年生の時は同じ組であった。お互い筋金入りの鉄道ファンであり、すぐに意気投合した。「青春18切符」と夜行列車を駆使して遠くに行ったり、近鉄特急の新型車が登場する度に“試乗”に行ったり、廃止間際の車両・路線に乗りに行ったり、大阪にある大きな鉄道模型店に行ったり、思い出は数知れない。その時の担任の教師は私達の鉄道好きに理解があり、学割証発行時に「親の同伴なく旅行をしないこと」という決まりがあったと思うが黙認してくれた。しかし中学校3年生の時、京都方面に遠足で行った帰りにグループから離れてこっそり近鉄特急に乗っているところを他の教師に見つかり、一緒にしかられたりしていた。別々の高校に進学したが、長期の休み期間になると一緒に旅行していた。その後彼は、ある鉄道会社に就職した。お互い遠方で多忙で家庭もあり、なかなか会う機会に恵まれないのだが、時々メールをしては鉄道談義に花を咲かせている。趣味と実益が一致している彼が少しうらやましい。いつの日かまた一緒に旅行し、童心に返って鉄道を楽しむことができればと思っている。

日本の鉄道

日本の鉄道は間違いなく世界一である。特に高速鉄道、新幹線の技術は他の追随を許さない。最高速度は現在320kmであり、フランスのTGVの320kmと同じだが、ヨーロッパ大陸と異なり、日本は地盤が軟弱で、地震が多い、山岳区間が多い、夏熱く湿度があり、冬は寒く大雪が降る、都市部の人口密度が高く騒音基準が厳しいのである。これだけの悪条件を克服してなおかつ安全かつ大量に輸送しているのである。日本の鉄道技術者からすれば「TGVのような重く、輸送力が小さく、騒音対策をしていない車両は話にならない、日本では使い物にならない」のである。ただし技術的に優れている反面建設コストが高く、高速鉄道の国際入札でフランスに敗れることが多かったのは事実である。鉄道技術の尺度として最高スピードよりも、いかに安定した輸送を行うかが大事である。そのためには車両、軌道、信号システムの3点セットを一体として考えることが重要である。特に鉄道後進国においては車両だけを良くすればスピードが出せると考えられがちであるが、これは大間違いである。高速鉄道のみならず在来線に関してもこれほど時間正確に大量に効率よく輸送できる鉄道は日本以外にない。2分おきに10両以上の長編成の電車が満員の乗客を乗せて時間正確にやってくるのを見て外国の鉄道関係者は必ず驚くそうである。外国の列車に乗ると改めて思うが、日本の車両の完成度もすばらしい。日本人の器用さ、頭の良さ、几帳面さ、まじめさが鉄道に良く現れているのである。日本の鉄道がすばらしいからこそ鉄道ファンがたくさんいるのである。このようなことを言うとナショナリズムを主張しているように思われるかも知れないが、こういう時代だからこそ日本人として誇りを持ちたいし、自信を持ちたいものである。

10年早く生まれたかった

「いつ生まれたかったか」という問いに明確に答えられることができる人はどれくらいいるだろうか。私は1974年生まれだが、10年前に生まれたかったと思っている。そうすれば蒸気機関車の現役時代の最期を見届けることができたし国鉄時代末期の鉄道を存分に楽しむことができたのではないかと思うからである。1987年4月、私が中学校に入った年だが、国鉄が分割民営化されJRが誕生した。その歴史的瞬間を目の当たりにできたのは鉄道ファンとして幸せだったが、小学生時代は当然ながら行動範囲が限られており国鉄時代の鉄道をあまり楽しめなかったのである。それでも奈良の自宅から秋田の祖父母の家に帰省する時には私の鉄道好きを慮ってか、両親は国鉄・JRを利用してくれた。大阪発青森行き昼行特急「白鳥3号」あるいは大阪発青森行きの寝台特急「日本海3号」で行き、青森発大阪行き寝台特急「日本海4号」で帰ることが多かった。かろうじて国鉄の全盛時代の面影を残す列車に乗ることができ良い思い出になっているが、「10年早く生まれていれば一人で国鉄に乗りに行けたのに」と今でも思う。国鉄はいろいろな意味で「無駄」が多かった。これには様々な理由があるが労使関係の悪化のため新しい施策を講じることが困難な状況が長く続いたこと、慢性的な赤字を計上し緊縮財政となっていたこともあり、近代化が遅れていた。その結果良くも悪くも効率至上主義ではなかった。あのような時代はもう二度とやって来ないのである。

将来の夢

私は高校3年生になるまで何を職業にするか悩んでいた。と言うよりは高校3年生になるまで現実感を持って将来の職業を選ぶということができず、成績が伸び悩んでいたこともあって、ただ目的もなく高校生活を送っている感じであった。それでも何となく鉄道車両の設計をやりたいと考えていたが、数学、物理学が苦手であったため、あきらめざるを得なかった。もし数学、物理学が得意科目だったら工学部に行き、近畿車輛株式会社に入社し、近鉄特急の設計をするのが目標になっていたと思う。しかし基本的に文系脳である私には難しいと直感した。一方地理、日本史などを含む社会科が得意科目であった。社会科に関しては常日頃興味があるためか大して試験勉強をしなくても点が取れたので、むしろ趣味に近かった。また文章を書くのが好きだったので漠然とノンフィクション系の作家を目指したいと思ったこともあった。これは私が人前でしゃべることが非常に苦手であり、その反動で文章を書くことに異常な執着があることも影響している。しかしノンフィクションというのは世界を知っていないと書けないことに気づきこちらも挫折した。ではなぜ医師を志したかはあえてここでは述べないが、今でも鉄道に携わりたいという夢は持ち続けている。今は雲をつかむような話であるが、何らかの形で「鉄道と医学の融合」を実現させることを夢見ている。そして定年退職したら好きな鉄道を存分に楽しみ、毎日鉄道模型を作って過ごしたいと思っている。鉄道業界に何かしら恩返しができたらと考えている。

あこがれの人物

私にとってあこがれの人物は宮脇俊三氏である。紀行作家であり、無類の鉄道好き、旅行好きである。元々中央公論社の敏腕の編集者であったが、国鉄の全線を完乗しその体験記を出版したのを機に退職、作家に転向された。鉄道に関する本を多数出版されたが、いわゆる「オタク本」ではない。普通の人の視点を決して忘れておらず、ユーモアにあふれ、名文家でもあり根強い宮脇俊三ファンが存在する。鉄道ファンはもちろん、鉄道ファンではない人が読んでもおもしろいと断言できる。特に戦前・戦中から終戦前後まで「鉄道は兵器だ。不急不要の旅行は控えよ。」と言われていた時代に苦労して日本中を旅行した記録を集めた「時刻表昭和史」という本がお勧めである。私は高校生時代に宮脇氏の著作を手当たり次第集め、文章を全て覚えるくらい繰り返して読んだ。私の語彙の大部分は宮脇氏の著作から得られたと言っても過言ではない。また宮脇氏は地理・歴史に造詣が深く、美食家でもあり、それが著作に反映されているため大変勉強になった。学生時代、社会科の成績が良かったのは宮脇氏の著作のおかげでもある。昔から私は一人で旅行することが多かったのだが、これは宮脇氏の旅行スタイルの影響を受けている。著作を通じて私の人生にも多大な影響を与えてくれた宮脇氏だが、2003年、76歳で亡くなった。戒名は「鉄道院周遊俊妙居士」である。宮脇氏のような人生にあこがれるが、彼のように作家に転向して成功できるほどの実力が私にはない。

今後の交通行政について

日本の交通行政は道路偏重であり、鉄道その他は大変冷遇されている。高速道路は国家的インフラであり、鉄道の在来線では太刀打ちできない状況が多々ある。例えば中央本線を見るが良い。中央本線は首都圏と山梨県および長野県、名古屋と長野県を結ぶ重要な幹線であるが、未だに単線区間が存在する。多少改良はされているものの基本的には明治時代のルートのままの区間が多く、カーブが非常に多い。その上を「しなの」「スーパーあずさ」といった車体傾斜制御付きの車両を用いた特急が高速走行している。その激しい走りっぷりは「爆走」という表現がぴったりで、車酔いしてしまう乗客がたくさんいる。しかるに中央高速道路は新幹線よりはるかに巨大な高架橋、長大トンネルである。中央本線の旅客輸送は鉄道側の努力でまだ善戦しているが、不公平極まりない状況ではないだろうか。高速道路は新幹線よりはるかに建設費が高いと言われており、鉄道で言えば新幹線に匹敵するインフラである高速道路に古くからある在来線で挑むのは無理がある。高速道路との争いに敗れ、没落した鉄道は数知れずである。元々経営基盤が脆弱であった上に、新しい高速道路に長距離旅客を奪われ苦闘しているJR四国、JR北海道を見ると心が痛む。世界初の車体傾斜制御付きの気動車を開発するなどして企業努力を最大限行っており決して手をこまねいていた訳ではない。路線改良を行うには巨額の費用、地域との合意が必要であり、鉄道会社だけで簡単に実現できるものではない。一方道路は採算性を度外視して全て税金で作られ整備されているのである。また鉄道会社は一部の例外を除いて線路施設も全て保有し保守経費を全額負担している。一方道路、湾港、空港はどれもそこにかかる保守経費を全て運行会社に負担させているわけではない。こんな不公平がまかり通るのなら、せめて無駄な道路を作ることをやめて、苦境に立たされている鉄道に対する何らかの支援策があっても良いのではないか。

新幹線は長い年月をかけて少しずつ延伸してきてはいるが、並行在来線については第3セクターへ移行、地方自治体への丸投げ、悪く言えば切り捨てである。東北本線・北陸本線のような重要な幹線を切り捨てるなど愚の骨頂である。例えば上下分離方式を採用しつつJRのネットワークのままで維持するような支援策が考えられないものだろうか。鉄道網を細切れにすると貨物輸送・モーダルシフトの足枷になり得るということを忘れないでほしい。交通行政については目先の損得勘定ではなく広い視野で考えることが必要である。

鉄道は乗客一人あたりの消費エネルギーが非常に低く、エコロジーな乗り物である。日本は山岳地帯が多く、その反面都市部の人口密度が極めて高く集約して輸送する必要があり鉄道の威力が発揮される場面が多い。またこれから高齢化社会を迎えるにあたって安全な公共の交通機関を整備しなければならないので鉄道をもっと重要視して良いはずである。最近頻発している高齢ドライバーの事故、バス事故を見ると、なおさらそう思う。

最後に

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最後は少々熱くなってしまったが、ここまでとりとめのない駄文におつきあいくださり感謝したい。私がここで一番言いたいことは「何かしら趣味があると人生が何倍にも楽しくなるし、行き詰まった時に助けてもくれる」ということである。もし鉄道ファンがいらしたらお声をかけていただければと思う。オタクな話で盛り上がりたいものである。

北口 良晃

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